防潮堤 - 総延長約14 km、高さは最も高い場所で約11メートル。
自然に形成されたドーナツ型の岩は、鍋の弦に似ていることからその名がついたそうです。
最初は西側から、そのあとは岬をまわり込むように反対側からと、時間差でいくつかの方向から襲ってきました。
メカニズム [ ] 複数の研究機関によりさまざまな解析が行われた。
この地震の1年半ほど後のに()が発生しており、そちらの方の被害規模が遙かに甚大であったためか、ほぼ同時期に発生した巨大地震でありながら、比較対象として取り上げられることは少ない。
20津波の被害を最も大きく受けたのは、奥尻島南部の青苗地区である。
半面で町の事業費負担158億円が財政を圧迫した。
2/ハイシャーベット 奥尻島の坪谷冷菓店が製造しているアイス。
津波対策 (1)防潮堤 防潮堤は、津波から尊い人命や財産を守るため、津波が来襲した海岸沿いの居住区を中心に整備されています。
これは北海道の住宅特有の強固な基礎がひとつの要因であると考えられる。 逃げる時は身軽が一番」 「全国からの救援物資もありがたいけどネ、ほとんど着るもの。
さらに高台移転などの復興関連事業で町が支出した158億円の借金返済が、その後の町財政を圧迫。 259-264, :• 自治体は、急速に衰退している現状を無視して、「あんなことをやってます」「こんなこともやってます」と宣伝ばかりするのだけど、様々な取り組みが機能していない現実を認めた上で、別の対策をとるべきではないだろうか。
それがみな海側に割れて崩れて、引き波の強さを見せつけていました。
地震防災研究領域 耐震構造研究チーム 地震動研究チーム• トに、巨大コンクリート構造物の写真がある。
フェリーターミナルの方を迂回するしか方法はなかった。
この地震だけで、地殻変動による地割や陥没、建物の倒壊、液状化現象による田畑や道路など、各地区で大きな物的被害をもたらしました。 が近かったため、を放送していた地域が多く、全国ニュースの切り替えには時間がかかったという。
一区の入口には8メートルの道路と少しの空地があります。 各地の震度 [ ] 震度3以上を観測した地点は以下の通り。
津波の被害が大きかった奥尻島青苗地区では火災が発生し、延焼拡大して189棟を焼く大火となった。
奥尻島西部では第一波到達の10分後に最大波となる第二波(島をした津波)が到達した。
その直後に奥尻島を襲った高さ29mの巨大津波は、一瞬にして島の生活すべてを奪い去った。
その10年後、奥尻を襲った北海道南西沖地震のときそれを覚えていた人も多く まだ大丈夫だろうと岬の突端を回って車で高台に避難しようとした人たちは約5分後の津波で車ごと流された グランドに流失したピアノ/稲穂小学校 青苗港近くで地震による大規模な土砂崩れが発生、ホテル洋々荘が土砂に埋まり多くのが犠牲になった 地震後の津波と火災で焼け野原になった奥尻町・青苗地区 地震直後の津波と火災に見舞われた青苗地区(高台に通じる階段を駆け上った人は助かった) 奥尻島の対岸にある北海道大成町(津波は堤防をも破壊する) 周囲の木造建物は流されたが鉄筋コンクリート造りの建物は残った (避難する時は遠くの高台より近くの鉄筋コンクリート4~5階以上へ避難すべき) 避難所(青苗中学校)の昼食風景 天皇皇后両陛下の被災地ご訪問 (両陛下は膝をつき同じ目の高さで被災者一人ひとりの話をお聴きになり、手を取り慰め励まされた) (政府への不満を口にしていた人たちも両陛下の姿に涙し、以降精神的にも顕著な立ち直りを見せた) フェリー開通後、救援物資(折りたたみリヤカー5台、小型発電機10台)を奥尻町長(右)に寄贈・中央が筆者 オクシリの語源はアイヌ語のイクシリ(海の向こう)からきている。
津波対策を備えた小学校(町立青苗小学校) ピロティ構造では、2階と3階部分が教室、通常の建物の1階に相当する部分が空間になっていることから、津波の回避等に効果的な対策となっています。
住民の自主避難行動 地震発生時に住民の88. そのため、奥尻町が推定震度で報道されていたが、その後全市町村に震度計が設置されることになり、震度計による震度測定に完全移行した。
そんな平和な暮らしを一瞬のうちに一変させたのが、平成5年7月12日に発生した「北海道南西沖地震災害」である。
出火原因が特定できていませんが、建物火災の第1出火点が、地震発生直後の7月12日午後10時35分ころと推定されることから、地震および津波が誘引となって出火したものと推測されています。 しかも、操業コストが高いイカが主流なので、利益はほとんど出ないだろう。
津波警報の発令よりも早かった。
震災から復興までのプロセスの経験がなかったが、町民や町議会、関係機関との連携により、計画通り5年間という予想以上の速さでの復興を成し遂げ、平成10年3月で完全復興宣言するまでになった。
205• 当時約4,700人ほどあった人口は、被害による転出などがあり減少傾向にある。
地震予知連絡会 会報 第53巻• 大岩生川• DATA 住所/奥尻町湯浜300 電話/01397-3-1414 営業/9:30~17:00(~10月、11~3月は問合せ) アクセス/奥尻港フェリーターミナルから車で約40分 ホテル緑館となり 駐車場/50台(無料 1)全てにビンテージを記した「OKUSHIRI」は、「海を感じるワイン」として評判。
19防波堤を超えた所で第1波と遭遇したが、何とか突破し沖に逃れ第一管区海上保安本部(小樽)に船舶電話にて「奥尻島に大津波襲来被害多数、至急救援求む」と連絡、これが奥尻島被災の第一報となった。 一方、この地震の被害の特徴として、地震動による建物の被害がそれほど多くなかったことが挙げられる。
工事は被災者の雇用を維持し、島外から最大2000人の作業員が入る「復興特需」が島を潤した。
震源地は、島の北西約70km沖、深さ約34km、マグニチュード7. 奥尻島の大津波をテレビで目の当たりにしたのがきっかけで、奥尻島の被災者救援のため、の協賛により、「お前ら募金しろ! その北海道南西部の日本海に浮かぶ島、奥尻島 おくしりとう に行くとなると、相当の気合が必要です。
誰もが予期せず、過去に例のない突然の大地震は、当時島内に地震計がないことから後に震度6以上の烈震と推定された。
航空自衛隊 奥尻島に所在するは、地震発生直後ただちに近傍災害派遣を発令し、崩壊したホテルでの救出活動や青苗地区での消火・救助活動に従事すると共に、負傷者に対しての医療支援・食料提供等を実施した。 それとは別に、義援金が総額190億円寄せられた。
考えられない高さの津波の来襲で家や集落が一瞬のうちに壊滅しましたが人的被害のほとんどもこの津波によるものでした。
余震域は南北に 150 km。
8の北海道南西沖地震。