他に、頼政等摂津源氏は直系の、に仕える大内守護の任にあったことから、別系統の高倉・安徳天皇の即位に反発したという説もある。 母の実家は藤原氏で家柄も良く、皇位継承において有力候補であったが、異母弟であるの生母であり権勢を誇ったの妨害に遭って阻止されたという。
法皇はに幽閉され、・基房は解任・配流、院近臣39名が解官された()。
この屈辱と恥辱が、頼政・仲綱父子に謀反を決意させた。
『平家物語』では、挙兵の動機は、頼政の嫡男・仲綱と(清盛の三男)の馬をめぐる軋轢ということになっている。
5月19日にはに入り、頼政も近衛河原の邸に火をかけ、家人らを引き連れて合流している。 この屈辱と恥辱が、頼政・仲綱父子に謀反を決意させた。
令旨によって熊野の勢力が二つに割れて争乱に発展したため、湛増が平氏に以仁王の謀反を注進したのである。
河内祥輔『日本中世の朝廷・幕府体制』p195-198• 姫宮は以仁王が木曽谷に潜伏していると聞いて密かに木曽谷を目指すが、上松で平家に見つかってしまう。
宣者が(頼政の子)になっており作成日時が頼政らが合流した22日以後になるという矛盾はあるものの、「最勝親王の命」・「一院第三親王の宣」という命令書が出されて王の没後も流布していたことが『』や『』にも登場すること(ただし、両書とも以仁王生存説にかこつけた偽書と推測しているが、両者とも実物は見ていない)から、4月9日の令旨は創作としても、園城寺に入った後に「以仁王の令旨」と呼ばれるのに相応しい文書が作成され、『吾妻鏡』に先行して成立したとみられる『平家物語』がそれをモデルとした可能性は考えられる。
妻:の娘• なお、『百練抄』・『平家物語』・『吾妻鏡』は大半あるいは全域が炎上したとするが、日記などの同時代史料にこうした記述はない)。 行家は令旨の日付と同じ4月9日に京を立ち、諸国を廻った。 脚注 [編集 ] 参考文献 [編集 ]• 『図説 合戦地図で読む源平争乱』 青春出版社、2004年、• 『平家物語』は、建春門院滋子の嫉みで三条高倉の御所で不遇の生活を送っていたと伝えている。
7なお、28日に高倉上皇が秘かに清盛邸に梟首されていた以仁王と源頼政の首級を見に行き(『百錬抄』)、皇位を退いたとは言え太上天皇が死穢である首級を見に行く行為は当時の貴族の間で批判の対象となっていたことを後日になって隆季とが語っている(『吉記』養和元年8月20日条)。
皇太子どころか親王ですらなく、王に過ぎない彼の形式の命令書は、本来はと呼ばねばならないが、身分を冒してこう称した。
第一王子のは義仲のもとに逃れてその旗頭に奉じられ、また第二王子の若宮は平氏に捕まり、と名乗って仏門に入った。
法皇はに幽閉され、・基房は解任・配流、院近臣39名が解官された()。
挙兵失敗と謀反人として [ ] しかし王の顔を知るものは少なく、東国生存説が巷に流れた。 治承元年()にはが起き、、、、ら院近臣多数が処罰され、も事件への関与を疑われた。
『』に云う、「平家にあらずんば人に非ず」の全盛期となった。 以仁王の死後も頼朝は自らの支配の大義名分として以仁王の「令旨」を掲げ、改元後も年号の文書を発給している。
兼実が「一宗を磨滅して何の益があるのか」と反論したため、隆季は不快の色を見せた。
『新編日本合戦全集 古代源平編』 、1990年、ISBN 425300377X• 1180年奉皇子 以仁王之命,舉兵討伐平氏,失敗后渡海逃往安房。
入主京都,以強硬的姿態擁戴已故 以仁王遺子北陸宮。
そして・・・4月27日、のに令旨を携えたが到着。 『平家物語』には、挙兵を呼びかける諸国の源氏の名が列挙されている。 の武士・父子はこれに反対し、「騎馬武者の馬筏で堤防を作れば渡河は可能」と主張した。
20多賀宗隼『人物叢書 源頼政』p131-133• ところが、以仁王が出家をしないで俗人のまま同領を支配することはその約束に反していた。 以仁王都。
渡河を許したため、頼政は宇治橋を捨てて平等院まで退き、以仁王を逃そうと防戦した。
『日本中世の朝廷・幕府体制』 吉川弘文館、2007年、 関連項目 [ ]• つまり、園城寺に逃れた直後に作成されたもので、行家が(4月9日の令旨ではなく)これに基づいて活動しているというものである。
家来とともに潜行していた伝説による。
次年五月,后白河法皇之子 以仁王終于聯合源賴政起兵對抗平氏,雙方交戰于宇治川。 『平家物語』では、挙兵の動機は、頼政の嫡男・仲綱と(清盛の三男)の馬をめぐる軋轢ということになっている。
13以仁王の死後も頼朝は自らの支配の大義名分として以仁王の「令旨」を掲げ、改元後も年号の文書を発給している。 妻: [ ]• 夜間の行軍に疲れた以仁王は幾度も落馬し、やむなく宇治橋の橋板を外してで休息を取ることになった。
以仁王の令旨 ~鎌倉の歴史と源頼朝~ 編集: 『吾妻鏡』によれば・・・ 1180年(治承4年)4月9日、は息子の仲綱とともにを訪れ、以仁王に「らの源氏を味方にして平家を討ち滅ぼすこと」を申し入れしている。
男子:(1167-1230)• 頼政の軍はの橋板を落として待ち構え、川を挟んでの矢戦となった。
以仁王の平家打倒の計画は失敗に終わっているが、やなどの源氏の挙兵へと繋がり、平家滅亡の糸口となった。