ジンギスカン モスクワ。 めざせモスクワ

【MV】ジンギスカン「めざせモスクワ」(1979年)/ by Dschinghis Khan

ジンギスカン モスクワ

このジンギスカンは「Daddy Cool」や「Sunny」などのヒットで知られるディスコバンドに多大な影響を受けており、この曲でヨーロッパのアーティスト登竜門「ユーロビジョン・ソング・コンテスト」に出場。 惜しくも4位という結果であったが大きな反響があり、リリースされたシングルはドイツで4週トップに輝き、ヨーロッパ各地で大ヒットしました。 日本でもディスコ中心に大きな反響があり、ポップフィールドでも数多くのカバーが制作されました。 ネットでも大人気だった「めざせモスクワ」 1980年のモスクワオリンピックをテーマにしたセカンドシングル「めざせモスクワ」も世界的なヒットとなりました。 こちらも様々なカバーが制作されたり、CMや応援歌に使われるなど、ポップシーンでも欠かすことのできない1曲です。 まだ動画配信が普及していなかった00年代前半にはFlashによるWEBアニメーションが流行していました。 いわゆるFlash黄金時代と呼ばれる頃ですが、ひとつの流行パターンに「空耳」があります。 オゾンの「Dragostea Din Tei(恋のマイアヒ)」など空耳ソングの人気は高く、同じく「もすかう」という名前で「めざせモスクワ」も多数のFlash動画を生み出しました。 個人的には「ハッチ大作戦」が記憶に残っています。 たしか、ひらけ!ポンキッキでもよく使われていたので、なんかジンギスカンといえばハッチ大作戦というイメージがあります。 ディスコイベントにアーリーアワーから行くとよく「ハッチ大作戦」がかかっていたりして、思い出深い1曲です。

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ジンギスカン (グループ)

ジンギスカン モスクワ

大会開催までの経緯 [ ] ソ連はでに初参加してから、常に国別の争いで上位に立ち、と呼ばれるトップ選手の獲得を国威発揚に活用していた。 その集大成として、自国の首都モスクワでのオリンピック開催を目指すようになった。 一方、オリンピック自体は巨大化の弊害が見え始め、での()などもあり、開催都市への負担が大きくなってきた。 その中で、スポーツ大国のソ連が運営を全面的に担うというモスクワ開催は支持を集め、、ので開かれた第75回でモスクワでの1980年夏季五輪の開催が決定された。 1980年夏季オリンピック 開催地投票 都市 国 1回目 39 20 モスクワでの初の開催の決定を受けて、大会施設の建設が急ピッチで行われたほか旧態化していたモスクワの当時の空の玄関であるのが大幅改修されるなど行われた。 ボイコット問題 [ ] 開会式に入場する代表チームの旗手。 でソ連と対立するのが1980年1月にボイコットを主唱し、、のや、それに1979年10月の IOC 理事会(名古屋開催)でIOC加盟が承認されていたが、以降ソ連と対立関係にあったや、、、などといったでを支援する諸国、および的立場の強い諸国など50カ国近くがボイコットを決めた。 一方で・の西側諸国の大半、すなわち、、、、、、、などは参加した。 イギリスではボイコットを指示した政府の後援を得られず、オリンピック委員会が独力で選手を派遣した。 またフランス、イタリア、オランダなど7カ国は競技には参加したものの、開会式の入場行進には参加せずイギリス、ポルトガルなど3カ国は旗手1人だけの入場行進となった。 これらの参加した西側諸国は概ねを用いず、優勝時や開会式などのセレモニーではとが使用された。 ただし、は国旗を用いている。 アメリカは、、日本、西ドイツ、中華人民共和国といったボイコットした国々とモスクワ五輪に対抗した競技大会を準備し 、 ()として1980年7月にで開催された。 日本 [ ]• ボイコット決定前 - 日本では決定前からモスクワオリンピック参加確定をほぼ疑わない空気が醸成されており、オリンピック協賛企業のテレビCMでは「頑張れニッポン!は近い!」と煽るフレーズが盛り込まれていたほか、後述の『めざせモスクワ』リリースや製作の『』が放映されるなど、プレイベントが各媒体で大々的に行なわれていた。 1980年2月 - 前月のアメリカからの西側諸国への要請を受け、は大会ボイコットの方針を固めた。 一方、 JOC は大会参加への道を模索した。 1980年4月 - 日本国政府の最終方針としてボイコットがJOCに伝えられた。 多くの選手はJOC本部で大会参加を訴えた。 1980年 - JOC総会の投票(29対13)でボイコットが最終的に決定された(なお、この採決は挙手によるもので、(当時)も出席しており、各競技団体の代表者には、参加に投票した場合には予算を分配しないなどの圧力がかけられていた)。 1980年 - JOC常任委員会、(幻のメンバー)を承認し、同時に大会への不参加を確認する。 前後のボイコットとの関連 [ ] 上記3大会とも出場した国 モスクワオリンピックへのボイコットを呼びかけ、中心的存在であったアメリカが開催する予定になっていた、次()の夏季オリンピックであるには、のを理由に多くの東側諸国が報復としてボイコットした。 中でもはモスクワオリンピックとロサンゼルスオリンピックを両方ともボイコットしている。 なお、前回のではの政策に絡み、諸国の多くがボイコットをしたが、今回の五輪では主にを除いたアフリカ諸国が復帰した。 一方で、モスクワオリンピックをボイコットした韓国で次々回に開催されたには、中華人民共和国もほとんどのアフリカ諸国もソ連をはじめとする(とを除く)も参加し、大規模なボイコット合戦にようやく終止符が打たれた。 めざせモスクワ [ ] この大会に前後して、西ドイツのポップグループでもあるがモスクワをモデルにして作った曲『』が世界的にヒットした。 西ドイツはモスクワオリンピックをボイコットしたにもかかわらず、これが縁でジンギスカンはモスクワオリンピックに招待された。 日本でも(所属声優のユニット)やによってカヴァーされた。 前者はオリンピックを強く意識した歌詞、後者はオリンピックと全く関係ないモスクワ観光的な歌詞だった。 実施競技 [ ] モスクワオリンピックの。 西側諸国の多くがボイコットした事で、大会はのメダルラッシュとなった。 特にソ連は自国開催の強みを最大限に発揮し、元来の得意種目の重量挙げや射撃に加えアメリカが不参加の競泳や陸上、日本が不参加の男子体操やバレーボールで順調に金メダルを獲得した。 金メダル80個はでのアメリカの83個に次いで、一つの大会での2番目の獲得記録となっている。 また、ソ連と同じく「ステート・アマ」が選手のほとんどを占めるもボートで14種目中11個の金メダルを稼ぎ、47個と第2位の金メダルを獲得した。 一方、東側諸国に押され気味の西側諸国の中ではイギリスが陸上男子のトラック競技で健闘し、100mのウェルズ、800mのオヴェット、1500mのコーと3つの金メダルを獲得している。 主な競技会場 [ ]• マイナー・アリーナ• オリニピック・プール• スポーツパレス• ドルジバ・マルチプロセス・アリーナ• (キエフ)• (サンクトペテルブルク)• ピリタ川(タリン) 各国・地域のメダル獲得数 [ ] 詳細は「」を参照 順 国・地域 金 銀 銅 計 1 (開催国) 80 69 46 195 2 47 37 42 126 3 8 16 17 41 4 8 7 5 20 5 8 3 4 15 6 7 10 15 32 7 6 6 13 25 8 6 5 3 14 9 5 7 9 21 10 3 14 15 32 主な金メダリスト [ ]• (、男子)• (、陸上競技男子)• (イギリス、陸上競技男子)• (イギリス、陸上競技男子)• (、陸上競技男子、)• (ソビエト連邦、陸上競技女子100m)• (、陸上競技女子)• (ソビエト連邦、陸上競技女子800m)• (ソビエト連邦、陸上競技男子)• (イギリス、陸上競技男子)• (東ドイツ、ボクシングフェザー級)• - 男子体操団体総合、個人総合他。 金3個、銀4個、銅1個を獲得し、のと並ぶ、個人の一大会最多獲得メダル記録を持つ。 ソビエト。 (、体操男子団体総合、種目別)• - 女子体操のと。 「白い妖精」。。 - 男子競泳自由形1500m。 人類史上初の「14分台スイマー」。 ソビエト。 - 女子。 この大会からまで金8個、合計12個のメダルを獲得。 東ドイツ。 - 男子マラソン。 に続く2連覇。 東ドイツ。 - 男子ボクシングヘビー級。 ミュンヘン以来の3連覇。 キューバ。 - 西側諸国のボイコットにより急遽繰り上げ出場となり、オリンピック初実施の同種目で同国初の金メダルを獲得。 大会マスコット [ ] 閉会式のマスゲームで涙を流すミーシャ ミーシャ をモチーフにした。 日本では系列(製作は)にて、開催の前年からこのマスコットを主人公とした『』というが放映されていた。 主題歌にはのも使われていた。 閉会式でやの影響でアメリカや日本、西ドイツや韓国といったがボイコットした事に対しての演出でミーシャが涙を流すというが行われた。 それから34年後のの閉会式にてミーシャの孫とされるホッキョクグマのマスコットが現れ、モスクワオリンピック閉会式の映像を流した後、スタジアムに設けられた小さな聖火台の聖火を吹き消すと共に一筋の涙をこぼすという場面が演出された。 テレビ放映 [ ] ソ連国内では全連邦ラジオで、欧州では (31カ国)とインタービジョン (11カ国)、中南米ではOTIを通じて放送された。 オーストラリアでは 、アメリカ国内では で放映したが、一部の国では放送体制を大幅縮小した。 また、カナダは当初で放送予定だったが、カナダのボイコットを受け中止が決定した。 日本ではに系列が独占放映権を獲得した。 しかし、日本のボイコットが決まったため、中継体制は大幅に縮小され、深夜の録画放送のみとなった。 放映権料についてはを参照。 なお、この前にテレビ朝日の重役で「怪物」と呼ばれたがソ連の高官と会っていたことから、に絡む黒い噂を含むが流れたことがある。 その後の影響 [ ] 国際的影響 [ ] 大会そのものは事件もなく平穏に終わったが、西側諸国の集団ボイコットによりその権威が失墜したことは疑いようがなかった。 閉会式のミーシャの涙に象徴されるように、ソ連の失望と怒りは深く、次のでは東側諸国を巻き込んだ報復ボイコットにつながった。 それを暗示するように、閉会式でのでは「 ロサンゼルスで会いましょう」という文字が一切出なかった。 大会後、がIOC会長を退任し、が新会長となった。 これ以上の大量ボイコットを避ける為の政治的独立と、その裏付けになる経済的自立を志向し結果的にや大型スポンサー契約に依存するへの傾斜を強め、プロ選手の出場解禁に道を付けた。 自国開催のソ連の選手には金メダル獲得が義務付けられ、他の東側諸国でも似たような状況となった。 その結果、組織的なが行われ、後に多くの選手が健康被害を受けることになったといわれている。 日本国内の影響 [ ] 種目によっては、世界トップレベルの大会への参加に8年間の空白が大きなマイナスに作用した。 団体競技の影響• 男子体操 - のから続けた5連覇が自動的に途絶えた金メダル奪回は、のにてようやく実現。 バレーボール - その後、男女とも未だに金メダルの再獲得に至っていない。 男子ハンドボール - の(以下、ロサンゼルス)、の(以下、ソウル)と2大会連続出場を果たすも、の(以下モントリオール)の9位には及ばず、の以降出場自体が途絶えた。 女子バスケットボール - ボイコットへ動き出していた最中に世界予選出場も敗退。 モントリオール以来の2度目の出場はのまで20年要した。 男子バスケットボール、同ホッケー、女子ハンドボール - 自国開催ののまで出場権獲得ならず。 特に男子バスケットボールは開催国枠も失う危機に見舞われた。 個人競技の影響• - 補欠として代表の可能性を残していたが完全消滅。 その後大学生の身分のままプロ転向。 () - のを協会の不祥事で出場を閉ざされて以来機会に恵まれず、念願の代表選出だったが、これも幻に終わった。 のでは次女であるがオリンピック出場を果たした。 - 前年の71kg級で優勝。 代表が内定していたがボイコットを契機に一度は現役引退。 その後、の柔道師範としてを指導していたこともあった。 - 競輪に転向。 ロサンゼルスでは弟であるに託し銅メダルを獲得している。 - その後、ロサンゼルス、ソウルと2大会連続出場を果たしたものの、ソウルで9位にとどまる。 - 現役引退。 後に復帰し、ロサンゼルスで銅メダルを獲得。 自転車競技 - 1977年にに合格しながらも、それを辞退して当大会にかけたものの出場叶わず。 当時存在した競輪学校の年齢制限(24歳未満)のため競輪選手への道も閉ざされたことから、このまま現役を退いた。 ボート、 - ほとんど一人の力で代表の座を勝ち取ったが、幻の出場に終わった。 その後、国内各地のレガッタに出場した。 - 当時11歳。 夏季五輪では初めての小学生の五輪代表選手だった が幻に終わった。 その後、ロサンゼルス、ソウルと出場したがいずれもメダル獲得は果たせなかった。 柔道 - 世界柔道選手権4回優勝の実績者で、代表が内定していたものの出場叶わず。 その後指導者となり、のでは審判員としてオリンピックの舞台に立った。 レスリング - 大学中退し、大相撲に転向。 レスリング - プロレスに転向。 1986年に復帰するもオリンピック出場果たせず。 柔道 - ボイコット決定の翌日に全日本体重別選手権で骨折を追う不運も重なるが、当時の東海大学総長の勧めで現地観戦。 それが功を奏しロサンゼルスにモスクワ組で唯一出場し金メダルを獲得。 テレビ朝日• 1977年の社名変更に続く大改革の柱だったオリンピック独占中継の価値が大暴落し、大きなダメージを負った。 ただ、この中継の留守番予備軍として大量に採用したアナウンサー達から、、、、、といった、のちに活躍することになる局アナを多く輩出した。 その後のJOCの対応• 不本意ながら政府のボイコット指示を受け入れざるを得なかったJOCは政府()から自立する形での組織の基盤強化の必要性を痛感し、にから独立し、としての活動を行うこととなった。 再招致 [ ] モスクワは、したが最初の投票で落選した。 なお、同年の開催地となったロンドンの招致委員長がこの五輪で男子陸上1500m金メダリストのセバスチャン・コーであった。 脚注 [ ]• 日刊スポーツ 2014年2月24日閲覧• 2, p. 379• SANSPO. COM 2020年5月24日• - 毎日新聞 2015年03月26日 18時32分• 後にの短編集「」(「」が収録)で「たった一人のオリンピック」として紹介された。 冬季は1936年の がいる。 参考文献 [ ]• 『オリンピックの政治学』(丸善ライブラリー、1992年)• 著「とオリンピック。 」 関連項目 [ ] ウィキメディア・コモンズには、 に関連するカテゴリがあります。 - 系で1979年8月 - 10月に月曜19:00 - 19:30 JST に放映された。 タイトルはモスクワオリンピックにちなんだもの。 司会は。 司会はと。 当初はモスクワオリンピックに向けて(同時にテレビ朝日の独占中継を)盛り上げる企画を予定していたが、日本政府の参加ボイコット方針により大幅に変更され、参加ボイコットの是非を問う企画がメインとなった(一部のバラエティ的な企画を除く)。 番組内では終始、参加の賛否についての視聴者アンケートも行われた。 なお、この番組のなかで「モスクワオリンピック応援歌」として初めて(生で)披露されたのが、「」(歌・)である。 外部リンク [ ]• (ロシア語)• 1896:• 1900:• 1904:• 1906: 注1• 1908:• 1912:• 1916: 注2• 1920:• 1924:• 1928:• 1932:• 1936:• 1944: 注2• 1948:• 1952:• 1956: 注5• 1960:• 1964:• 1968:• 1972:• 1976:• 1980:• 1984:• 1988:• 1992:• 1996:• 2000:• 2004:• 2008:• 2012:• 2016:• 2020: 注3, 注4• 2024: 注4• 2028: 注4• 2032: 注4.

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「ジンギスカン」「めざせモスクワ」などディスコヒットを放ったジンギスカン

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ヨハネスブルグでバレーとアートグラフィックを学んだ後、1975年にヨーロッパに渡りソロ・ダンサーとして活動していました。 なお、ジンギスカンとういグループに、ダンサーとして加入することになります。 なお、グループではオーディション以外で決まった唯一のメンバーでもあります。 ルイスは、ジャケットやステージでも常に中央に位置していました。 ジンギスカンとしては初期はダンサーとして活躍していましたが、次第にボーカルもとるようになってきました。 ちなみに、ユーロビジョンの本選で「ジンギスカン」を歌う時も、メンバー間をクルクル回っているだけで、マイクがない(=歌っていない)のは彼だけです。 ジンギスカン解散後は、ヘンリエッテ、レスリーらと共にジンギスカン・ファミリーのメンバーとなりユーロビジョン・ソング・コンテストにも再び参加しました。 (ジンギスカン・ファミリーについては、「」に詳細に記載しています。 ) その後は、第一線から身を引き、故郷のヨハネスブルグで、ホテルのマネージャーなどをしていたという情報を得ています。 なお、彼は1993年にエイズで死亡したとのことです。 EDINA POP エディナ・ポップ ハンガリーのブダペスト生まれ。 ジンギスカン加入以前は、西ドイツでソロとしてシングルをリリースするなどの音楽活動をしていました。 「Petruschka」(1970年頃) *デビュー・シングル? この「Petruschka」は、ロシアの代表的民謡「カチューシャ」に手を加えたもの 「Zwischen Wolga und Don」 (70年代前半?) *この頃は、このメガネがトレードマークだったみたいです。 エディナ・ポップは、現在もソロ・アーチストとして音楽活動をしてCDもリリースしています。 また、2005年のリユニオン・コンサートにもメンバーとりました。 HENRIETTE HEICHEL ヘンリエッテ・ハイヒェル オランダのアムステルダム生まれ。 ジンギスカン加入以前に下のウォルフガング・ハイヒェルと結婚しましたが、1986年のジンギスカンの解散と同じ頃、離婚してしまいました。 ジンギスカン解散後は、ルイス、レスリーらと共にジンギスカン・ファミリーのメンバーとなりユーロビジョン・ソング・コンテストにも再び参加しました。 (ジンギスカン・ファミリーについては、「」に詳細に記載しています。 ) しかし、それ以降は音楽界から身を引いたのか、ネット上でもまったく情報を見つけることができませんでしたが、2005年、(ヘンリエッテ・ストロベルとして)リユニオン・コンサートにおいて音楽活動を再開しました。 WOLFGANG HEICHEL ウォルフガング・ハイヒェル ドイツのマイセン生まれのベルリン育ち。 そこでシンガー、ソング・ライター及びプロデューサーとして活動してきました。 ジンギスカンには、上記のヘンリエッテ(元妻)と共にメンバーに選ばれました。 ウォルフガングは、ジンギスカンの「カスパル・ハウザー」「グッバイ・ハワイ」「James Bond」などアルバム中のいくつかの楽曲を作曲しています。 ジンギスカン解散後、1986年に新たなグループ「THAT'S LIFE」のメンバーとなり、ユーロビジョン・ソング・コンテストにも参加しましたが良い成績を収めることは出来ませんでした。 (THAT'S LIFEについては、「」に詳細に記載しています。 ) その後は、ヘンリエッテ同様、音楽界から身を引いたのか、まったく情報を得ることはできませんでしたが、2005年、リユニオン・コンサートにおいて音楽活動を再開しました。 LESLIE MANDOKI レスリー・マンドキ ハンガリーのブダペスト出身。 ジンギスカン加入以前のキャリアは長く、ヴォーカリスト兼、パーカショニストとしてヨーロッパ諸国で経験を積んでいました。 ふとしたきっかけで加入し、スターとなったジンギスカンですが、ジャズ・ロッカーとしての夢がありながら、聴衆のためにポップ・シンガーを演じなければならない、というジレンマがレスリーには常にあったようです。 しかし一方、レスリーはジンギスカンの「プスタ」「英雄アラジン」などアルバム中のいくつかの楽曲を作曲するなど、類稀な才能も発揮しています。 ジンギスカン解散後は、ルイス、ヘンリエッテらと共に、ジンギスカン・ファミリーとして一時期活動も行いました。 (ジンギスカン・ファミリーについては、「」に詳細に記載しています。 ) また、その後は何枚かのソロ・シングル(下記参照)をドイツにてリリースしています。 「Schoolgirl's Fantasy」 1985年 【マンドキ名義】 *ドイツというお国柄と年代から想像されるように、エレクトロニクス・ポップといった感じの楽曲。 ラップにも挑戦しています。 「愛に生きて On Principle 」 発表年不明 【マンドキ名義】 *こちらもエレクトロニクス・ポップ。 サウンド的には、80年代後半あたりか? 「KOREA」 1988年 *ニュートン・ファミリーの女性ボーカリストのエバとデュエットでシングル「KOREA」を韓国や日本でリリースし、特に韓国では大ヒットとなりました。 同時にアルバム『』を日本でもリリースしました。 1997年には海外のミュージシャン(ニック・カーショウ、チャカ・カーン、ボビー・キンボール(TOTOのボーカリスト!)、スティーブ・ルカサーなどの豪華メンバー)とコラボレートしたアルバムを、2002年にも同様のコンセプトのアルバム『』をドイツにてリリースしています。 下記サイトにも詳細な情報が記載されています。 STEVE BENDER スティーブ・ベンダー 「Final Thing」 1977年 ドイツのマインツ生まれ。 1960年の後半から、数多くのグループでギターとヴォーカルを担当しました。 アメリカでも2年間、活動の経験を持っています。 アメリカからドイツに戻ってきてからも、ドナ・サマーの楽曲などのライターとしても知られる、Pete BelloteやKeith Forseyらのプロデュースで、ミュンヘン・サウンドによるヒット「The Final Thing」(右記)を出しています。 ジンギスカンのメンバーとしては、、アルバム中の「ディスコ・ドラゴン」の作曲、「キャプテン・ネモ」をレスリーらと共作しています。 ちなみに、彼のトレードマークでもある坊主頭は、当時一日に二回髪を剃っていたそうです。 (解散後、日本のテレビ番組『なるほど!世界なつかし 青春のアイドル大追跡』に出演した時にそう語っていました。 ) ジンギスカンとしては、アルバムを二枚リリースしたのを最後に、腰痛が原因で、ドクターの勧めもありグループを脱退したそうです。 脱退後は、ソロとして何枚かのシングル(下記参照)をリリースしました。 「One and One is Two」 1981年 *ゴスペル・タッチのバラード曲ですが、アレンジャーはジンギスカンと同じNorbert Daumが担当しています。 「Daytime, Nighttime」 1982年頃 *ジャケットのセンスは「?」ですが、楽曲もそれなりと言った感じ。 彼は現在は、ドイツでという会社をおこし、音楽プロデューサーとして活動しています。 プロデュースをしているアーチストにはメラニー・ベンダーという自分の娘もいるようです。 上記ウエブ・サイトからは、スティーブ・ベンダーがソロとして活動していた頃のシングル・ジャケットを参照したり、楽曲の視聴もできるようになっています。 メラニー・ベンダーは日本でもリリースしています。 曲はハイパーな感じのユーロビートです。 も参照してください。 父親に関しては元ジンギスカンのメンバーと記載してほしかったですね。 『YOU JUST WANT SEX』 /MELANIE BENDER avex AVCD-11548 その後は、エディナ、ヘンリエッテ、ウォルフガング同様、2005年のリユニオン・コンサートに参加。 ジンギスカンのメンバーの一人としての音楽活動を再開しました。

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