「加」は大日如来の光が衆生の心を照らし、そこに現れること、「持」は修行者の心が大日如来の光を感じ取ることを意味します。
すなわち、何ものにも脅かされない安心立命の境界の確立と、生命の浄化、そして物心両面にわたって福徳に満ちた人生を築くことが、妙法信仰の功徳なのです。
初めの一頌は、即身の二字を歎じ、次の一頌は、成仏の両字を歎ず。
14年()の鉄龍海の場合も、前年に発布されたこの墳墓発掘禁止令が問題となったが、1000日後に信者の手により秘密裏に発掘され、即身仏としての処理がなされ祀られた。
大地の堅固さに例えられる。
重重帝網の重重は幾重にも重なっていること。 遇うと遇わざると、 何ぞそれ 遼 はるか なるや」 と述べておられる。
… 【救い】より …ところが,このような潮流に対して,とりわけ解脱宗教的特徴を強く示したのが,たとえば空海と道元によって代表される宗教経験であった。
具には、地位品に説くが如し。
文中に「二乗が無き煩悩・業・苦をとり出だして」とありますが、 「灰身滅智」というのは「敗種、腐種」の事でありまして、 二乗の修行によりいったん死なせてしまった種を、 法華経により蘇らせて即身成仏するという事であります。
と序を掲げ、 最後に帰命し奉ると明記されている。
だから阿弥陀如来は、生きているときの往生をさせることに命をかけておられるのです。
これが「 相 そう」であり、 「 相大 そうだい」ともいいます。
仏教が好きで、東京大学教養学部で量子統計力学を学んだものの、仏道へ入る。
そのために菩薩としてあえて世間苦を甘受し、なおかつ仏陀にならって、みずからも慈悲の精神を「利他行」というかたちで発揮しようとした。 言葉、音声、言葉の意味など宇宙を形成する波動的側面を表す。
世間のことでもそうです。
しかし、蓮祖はそう言っているのですから間違いはないのでしょう。
待っていたのに『 なんだ来なかったのか…』ということのないようにな」ということです。
しかし空海は、 いや、 この世で生きているうちに成仏 できなかったならば、 何のための仏教かと疑問を持ち、 そしてついに密教に出遇われ、 「即身成仏」 を教えの 根幹にされた。
まさに、生きボトケである。
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これが六根清浄であり、即身成仏の大功徳なのです。
高い台に置かれた曇りのない鏡が全てを映し出すように、 大日如来の心の鏡は大宇宙の最も高い場所にあり、一切の現象を正確に映し出しています。 道徳の目覚め 第三住心 嬰童無畏心 ようどうむいしん 【宗教心の目覚め・ 、 の境地】 あたかも幼児が母につきしたがって 一時の安心を覚えることにたとえている。 故に、一切智智と名づく。
20重重帝網なるを即身と名づく 帝釈天の網の結び目にある無数の宝珠は、どれか1つの宝珠に映り込んだ情報は他の全ての宝珠にも反映される。
死んだら助けてあげましょう」 という医者がいるはずがありません。
及び人尊(にんそん)もまた然(しか)なり。
概要 [ ] 日本の一部地方に見られる民間信仰において、僧は死なず、生死の境を超え出世の時まで、を目的として永遠の瞑想に入る(:にゅうじょう)と考えられている。
瑜伽とは、翻(ほん)じて相応と云う。 その功績ゆえ、彼らの名にはすべて「空海」の「海」の字を与えられている。
もし、心を顕教に遊ばせれば、三阿僧祇劫という長い年月の彼方はるかな時を必要とします。
では、西本願寺の言う往生はどんな往生かというと、この世のことではないので、死んでからのことだ、ということです。
空海は「成仏」という言葉を、「仏に成る」という意味で考えていない。