ジョン ウェイン ゲイシー 絵。 殺人博物館〜ジョン・ウェイン・ゲイシー

映画「ジョン・ゲイシー」少年33人を殺害した、殺人ピエロの実録

ジョン ウェイン ゲイシー 絵

二人の男性の間に、ある恐ろしいものが描かれています。 絵を斜めから見ると……不気味な「頭蓋骨」が現れました。 実はこれ、隠れメッセージ。 頭蓋骨は死の象徴…… 「人は必ず死ぬ、だから現世で栄誉や富を追い求めるのは虚しいこと」 そんな戒めが込められた絵なのです。 そんな画家の人生と共に、怖すぎる絵を紹介します。 カラヴァッジョ 16世紀後半にイタリアで活躍した「カラヴァッジョ」 彼の作品には、詐欺や盗みの現場を描いたものがあります。 実は彼、気性が荒く、若いときからケンカばかり。 35歳のときにはついに、殺人を犯してしまいます。 その後 逃亡生活を続けたカラヴァッジョは、最後の作品を残します。 剣を持っている少年が、男の首を持っています。 その首は、カラヴァッジョの自画像です。 自らの罪の許しを求めて描いた絵と言われています。 画家の人生を知れば、絵がもっと面白くなる!! 教えてくれるのは、著書「怖い絵」シリーズがベストセラーの 美術評論家・ 中野京子先生。 一見、楽しそうなピエロの絵ですが、よく見ると、目も口元も笑っていません。 観方によっては、怖い絵と思いませんか。 この絵は、1980年ごろ、プロの画家ではない人物が描いた自画像。 彼の絵は、一部コレクターに人気があり、ハリウッド俳優のジョニー・デップも彼の絵を持っています。 プロの画家ではないにもかかわらず、100万円以上の値がつくことも。 この絵の作者は、1970年代にアメリカを恐怖のどん底に陥れた連続殺人鬼「ジョン・ウェイン・ゲイシー」です。 ピエロの格好でチャリティーに参加し、子どもには大人気。 しかし一方で、多く少年や若い男性を殺害したことから「殺人ピエロ」と呼ばれました。 ゲイシーの自画像であるピエロの目は、下を向いています。 それはまるで、子どもたちを見ているよう。 右下の風船には、「僕はピエロのポゴ」とサインがあります。 ゲイシーは子どものころ、体が弱く父親から虐待され「違う者になりたい」という欲求を強く持っていたと言われています。 「死の島」 第二次大戦中、ナチス・ドイツの総統として独裁政治を行ったヒトラーが、特別に愛したと言われている怖い絵。 タイトルは「死の島」。 描いたのは、19世紀 スイス出身の画家「ベックリン」。 20代から画家として活動し、牧歌的な風景画などを描いていましたが、なかなか絵は評価されていませんでした。 しかし、53歳のとき、ベックリンの運命を変える出来事が。 ある日、一人の女性がベックリンの元を訪れ、 「夫が亡くなったので、夫の喪に服すための絵をお願いします」と、奇妙な絵の発注を受けました。 ベックリンは、絵を描いているうちにあることを確信します。 「この絵はきっと、自分の代表作になる!」 「死の島」はたちまち評判になり、たくさんの絵ハガキやポスターが作られ、 特にドイツでは、ほとんどの家庭にこの絵があると言われたほど。 島の中央には、死を表す不気味な木。 舟が棺(ひつぎ)を乗せ、島に向かっています。 島には、この柩を埋葬するためのたくさんの穴が。 つまりこの島は「墓場」なのです。 「死の島」の絵を手に入れたヒトラーは、執務室に飾っていました。 第二次大戦前、ドイツとソ連が条約を結んだ後に撮影された写真にも写っています。 しかしその後、条約は破られ、ドイツはソ連に侵攻。 たがいに多数の死者を出す惨劇となり、自分の国を まさに死の島に変えてしまいました。 Sponsored Link 片方の目がない自画像 20世紀、ルーマニアの画家「ブローネル」。 28歳のときに自画像を描いていたブローネルは、 「普通の自画像ではつまらない、ちょっとアレンジしよう」と、軽い気持ちで描いた怖い絵には、片方の目がありません。 しかも恐ろしいことに、この絵が7年後に現実となってしまうのです。 ある日の晩、ブローネルは友人たちと、夕食後に楽しいひと時を過ごしていました。 しかし、友人たちが口論を始め、ついには掴み合いに。 ブローネルが友人たちをなだめますが、一人の友人がグラスで彼の顔を殴り、グラスの破片が片方の目に刺さり失明してしまいました。 鏡に映った自分の顔を見て「絵の通りになってしまった」と嘆いたブローネルは、のちにこう言い残しています。 「絵に襲われた」 ゴヤの画家魂 スペインを代表する画家「ゴヤ」。 空中を飛びながら争う女性たちを描いた絵は、スケッチにもかかわらず4億9000万円の値が(2008年当時)。 彼が活躍した19世紀初頭 スペインは、他国から侵略を受ける激動の時代でした。 宮廷画家として成功していたゴヤは、46歳のときに悲劇が襲います。 原因不明の病に侵され、生死の境をさまよい 回復したときには、耳が聞こえなくなっていました。 するとゴヤは その影響からか、自分の頭に浮かんだ幻や悪夢をすすんで描くようになりました。 68歳のときに描いたのが、教科書にも載っているゴヤの代表作、 フランス軍がスペインに侵攻したことを描いた戦争画の傑作です。 右側のフランス兵は顔が見えず、まるで殺人マシンのようです。 一方、殺されるスペインの人々は、 表情も仕草も様々で 恐怖や感情がひしひしと伝わってきます。 「人間はなんて 愚かで醜く残酷なのか」 73歳のとき、ゴヤは再び病に倒れます。 しかし、彼の画家魂は不屈でした。 病に苦しむ自分の姿を描くために、目の前に鏡を置き、自分をじっくり観察したのです。 医師に薬を飲ませてもらおうと、ぐったりしているのがゴヤ自身です。 うつろな表情から、苦しみが生々しく伝わる絵。 ゴヤはその後、絶望感に満ちた暗く怖い絵を描きました。 82歳で亡くなるまで、絵を描き続けたゴヤの最後のスケッチと言われているのが「ゴヤの自画像」。 杖をつき、背中は曲がっていますが、目は鋭く見開かれています。 そして絵には「俺はまだ学ぶぞ」という文字が書かれています。 少年の感動の物語 サメに襲われそうになっているのは、イギリスの施設で育ったワトソン少年。 彼は、1749年 14歳のとき、海で突然サメに襲われたのです。 ワトソン少年は右足を失ってしまいました。 命は助かったワトソンですが、何度も悪夢が襲います。 しかし彼は、この苦しみを乗り越え 人生を諦めません。 「助けてもらった命、無駄にしない!」 ワトソンの努力の日々が始まりました。 少しでも歩けるように懸命に練習します。 「片足がなくても、僕は何でもできる!」 強い意志のもと、努力を重ねたワトソンは、その後 貿易会社などを経営し、実業家として大成功。 そして61歳のとき、なんとロンドン市長に当選。 当時の肖像画を見ると、義足も堂々と描かれています。 さらに 画家に依頼して、サメに襲われる絵が生まれたのです。 ワトソンは、自分自身が経験した一番辛い場面を絵にすることで、観た人の心に深く残るようにしたと言われています。 実話をもとにした絵を見て、「努力すればきっと報われる」と、人々は勇気づけられました。 絵は、彼が亡くなったあと、彼が育った施設に贈られました。 (了) [出典:2016年7月30日放送「世界一受けたい授業 怖い授業SP」] この記事を読んだ人はこの記事も読んでいます 中野京子先生書籍一覧 新怖い絵/中野京子 怖い絵/中野京子 怖い絵(泣く女篇)/中野京子 怖い絵(死と乙女篇)/中野京子 Sponsored Link -• 週間人気記事• 105ビュー• 77ビュー• 76ビュー• 71ビュー• 70ビュー• 57ビュー• 51ビュー• 50ビュー• 42ビュー• 39ビュー• 38ビュー• 38ビュー• 36ビュー• 32ビュー• 32ビュー• 31ビュー• 30ビュー• 29ビュー• 27ビュー• 27ビュー• 26ビュー• 26ビュー• 23ビュー• 22ビュー• 22ビュー• 22ビュー• 21ビュー• 21ビュー• 21ビュー• 21ビュー• アーカイブ アーカイブ• 最近のコメント• に より• に より• に より• に より• に より• ブログ広告.

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IT(映画)は実話?ペニーワイズの元ネタは米のあの事件!モデルの生い立ちは?

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2010年07月15日 08時00分 ヒトラーからジェームズ・ディーンまで、絵心ある有名人による作品を集めた「この絵だれの絵?」クイズ ジェームズ・ディーンやキャサリン・ヘプバーンといった往年の映画スターから、デヴィッド・ボウイやシルヴェスター・スタローンといった現役のスター、そして独裁者アドルフ・ヒトラーや連続殺人者ジョン・ゲイシーなどの悪名高い人物まで、さまざまな分野の有名人によって描かれた絵画を集め、どれが誰の作品かを当てるクイズを紹介します。 「ロックスターらしい絵」や「独裁者らしい絵」「殺人者らしい絵」といったものが存在するのかどうかは意見がわかれるところかもしれませんが、その有名人の描く絵の作風を知らない人でも、年代に基づく推測や人物像に基づく直感、消去法などの組合わせによりある程度当てることが可能。 答え合わせで作者を知ると「らしい絵」だと納得してしまうような作品が多く、なかなか興味深いものとなっています。 詳細は以下から。 クイズは10枚の絵画と10人の有名人の中から、作品と作者を正しく組み合わせるというものです。 10人の有名人は左上から順に、歌手の 、 、 、「自殺装置」の開発で有名な安楽死推進派の医師 、女優の 、 、 、 、連続殺人者の 、コメディアンで人気司会者の。 それでは、1枚ずつ絵画を見ていきましょう。 上記10名の有名人の中から作者を当ててみてください(正解は1番下にあります)。 「Portrait Of Billy Gunn」 2. 「Downtown Los Angeles」 3. 「Birds」 4. 「Shelter at Fournes」 5. 「Head IV」 7. 「無題」 8. 「Real Patriots Pay U. Taxes」 9. 「For He Is Raised」 10. 「Chrome Napkin and Ketchup」 正答は以下の通り。 「Portrait Of Billy Gunn」を描いたのはジェームズ・ディーン。 24歳という若さで亡くなる前に描かれた最後の作品と言われています。 描かれているのは Billy Gunn氏で、ジェームズ・ディーンからプレゼントされたオリジナルの絵は今もGunn氏の家族が所有しているそうです。 「Downtown Los Angeles」を描いたのは「霧のサンフランシスコ」などで知られる歌手のトニー・ベネット。 画家としてもたびたび個展を開いていて、自身のCDのブックレットにも作品が使用されているとのこと。 「Birds」を描いたのは70年代に少年を含む33名を殺害した殺人鬼のジョン・ゲイシー。 彼の描いたピエロの絵画はマニアには大変な人気があり、展示会が開かれたり、高値で取引されているそうです。 花と鳥を描いた一見穏やかなこの絵も「連続殺人鬼が描いた」と聞くと異なったイメージを持ってしまいそうです。 「Shelter at Fournes」はアドルフ・ヒトラーの作。 ウィーンで画家を志したこともあったという絵心のある独裁者ヒトラーが描いた人物画や風景画は。 タイトル通り の犠牲者にささげられた壁画のようです。 「Head IV」はデヴィッド・ボウイの作品。 ミュージシャンも絵描きも右脳を使うといわれている創造力が要求される仕事なので、趣味で絵を描くミュージシャンや趣味で音楽を演奏する画家というのはめずらしくないようです。 題名のないこの絵はキャサリン・ヘプバーンによるもの。 キューバの国旗が見えるので、休暇中に描かれたものなのでしょうか? 8. 「Real Patriots Pay U. Taxes」はコメディアンのビル・マーの作。 「真の愛国者は税金を払う」と、アメリカ国外に資本を移し節税に励む大企業を風刺しています。 「For He Is Raised」は、末期病患者の積極的安楽死を推進し「タナトロン(死の機械)」と「マーシトロン(慈悲の機械)」という自殺装置を考案したことで知られるジャック・ケヴォーキアン博士の作品。 「Chrome Napkin and Ketchup」を描いたのは70年代の人気テレビドラマ「 」の次女Jan Brady役で知られる女優のイブ・プラム。 本格的に絵を描き始めたのは20年以上前で、現在ではアメリカ各地の画廊で作品が扱われているそうです。

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IT(映画)は実話?ペニーワイズの元ネタは米のあの事件!モデルの生い立ちは?

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もともとジョン・ゲイシーは趣味で絵を描いていました。 刑務所に収監されていたときにも描いており、その絵はマニアに人気があります。 その中の1枚は俳優のジョニー・デップが所持しています。 またジョン・ゲイシーは、1990年11月に公開されたスティーブン・キングの映画『IT』のモデルとしても有名です。 『IT』は、殺人ピエロ キラークラウン の出で立ちをした悪魔のペニーワイズが子供を捕食するというホラー映画です。 子供たちを楽しませるはずの道化師が子供たちに襲い掛かるというモチーフになっています。 ジョン・ゲイシーはいくつかの名言を残しています。 その中でも有名なのが「ピエロになれば、人殺しなんて簡単なことさ」という名言です。 ジョン・ゲイシーは多重人格による犯行を主張しました。 殺人ピエロ キラークラウン のような凶暴な別人格になってしまえば、殺人など簡単であると主張しました。 また、道化師ポゴくんに扮しているときが唯一安らぎを感じたときだったとジョン・ゲイシーは語っていました。 ジョン・ゲイシーによると殺人ピエロ キラークラウン になっているときは全てを忘れることができるというのです。 良識も常識もなくなった殺人ピエロ キラークラウン の状態だからこそ、殺人などは簡単にできるという意味の名言なのです。 ジョン・ゲイシーは、1942年3月17日にアメリカ合衆国イリノイ州シカゴ市の貧しい家庭に生まれます。 たたき上げの熟練機械工であった父親は厳しい人でした。 父は脳内に腫瘍があって、発作的な癇癪を起こす人でした。 父は息子に期待して、強さの象徴である名優ジョン・ウェインからジョン・ウェイン・ゲイシー・ジュニアと名づけます。 生まれたばかりのジョン・ゲイシーには心臓疾患がありました。 これを聞いた父親はひどく落胆し、ジョン・ゲイシーに対して虐待を始めます。 身体の弱いジョン・ゲイシーに対して「クズ」「間抜け」「オカマ」「ホモ」とののしり、革砥で叩いていました。 これを原因として、ジョン・ゲイシーはパニック障害や心臓発作を起こします。 ジョン・ゲイシーはストレスを溜め込むと失神するようになります。 そのたびに父親はなじります。 母親が父親を諭すと、逆に父親は余計ひどくあたるようになりました。 ジョン・ゲイシーの発作や失神はひどくなり、14歳から18歳の間に入退院を繰り返しました。 高校は4回も転校して、結局は高校卒業資格をとれず中退となります。 このため、職業訓練校に通うことになります。 ところが訓練校でのジョン・ゲイシーは非常に優秀な生徒で、学校の先生から助手として雇われます。 また父に気に入られようと、父が応援していた民主党議員を応援するボランティア活動をします。 少しずつ父子の関係が改善されようとした矢先、再び不幸が訪れます。 当時のアメリカにはまだ兵役義務がありました。 ジョン・ゲイシーは、心臓疾患や失神のために兵役を免除されます。 強い息子を欲していた父は、再びジョン・ゲイシーをオカマ呼ばわりします。 20歳のジョン・ゲイシーが父に車を借りようとしたときに口論となり、腹を立てたまま家を飛び出します。 そのまま3ケ月間、ラスベガスの葬儀社で住み込みアルバイトをします。 ジョン・ゲイシーが22歳のとき、マリリンと結婚します。 結婚の数ヶ月前、一緒に酒を飲んでいた男性とオーラルセックスに耽ってしまいます。 このことに恐怖と嫌悪を感じたとジョン・ゲイシーは後日告白していますが、少年愛・同性愛が目覚めたきっかけとなったのは明白です。 この時代の同性愛はタブーであり、周囲に知られないように十分に注意しました。 ジョン・ゲイシーは女性を受け付けないということではありませんでした。 18歳のときにガールフレンドと関係を持とうとしたときに発作を起こし失神してしまったことがあります。 ここから同性愛の方に安心感を求め、世間体を保つためだけに女性と付き合うようになっていきます。 シカゴに戻ったジョン・ゲイシーは29歳のときに高校の同級生であるキャロルと再婚し、キャロルの連れ子も引き取ります。 ビジネスの成功と比例して犯罪の数も増えます。 アイオワ州男子矯正院に収監されたジョン・ゲイシーでしたが、院内では勉強に励みわずか7ケ月で高校卒業資格を取得します。 また大学の通信講座を利用して心理学の単位をも取得しています。 その上、院内の待遇改善に関する2つの法案を州議会に通すなど、院内では抜群の模範囚でした。 このためわずか16ケ月で出所となります。 出所したジョン・ゲイシーですが、服役中に父が肝硬変で死去しており、ついに父親に認められることはかないませんでした。 父の訃報を聞いたとき、ジョン・ゲイシーは膝から崩れ落ちました。 ジョン・ゲイシーは母親に連れられてシカゴに戻ります。 出所からわずか半年後、再び少年に対しての性暴行容疑で逮捕されます。 ところが、原告が裁判に出廷しなかったため、この事件では不起訴になります。 幼い頃に父から虐待を受けていたことが、ジョン・ゲイシーを犯行に向かわせた原因のひとつです。 また、5歳の頃に近所の精神遅滞の少女から性的悪戯をされたこともトラウマになっていました。 6歳の頃に万引き癖がついていたり、母親の下着を盗んでいたことも犯罪へ向かわせた原因の1つです。 8歳のころに父親の友人がジョン・ゲイシーと遊んでくれましたが、レスリングと称して自分の股間をジョン・ゲイシーの顔に押し当ててきた経験も、トラウマになっていました。 ジョン・ゲイシーは被害者たちの自由を奪い、レイプし、苦しむところを見ながら殺害することを好みました。 34人目の被害者は、刑務所内でのレイプ未遂です。 勤勉でビジネスセンスのある成功者であったり、地域への慈善活動にも精力的であったジョン・ゲイシーですが、異常な犯罪を繰り返したのもジョン・ゲイシーでした。 勘違いで少年を殺害したあとのジョン・ゲイシーは、少年を殺害することにも快感をおぼえるようになりました。 ジョン・ゲイシーの犯行は、いつも同じ手口でした。 場が和んだところで手錠を使ったマジックを行います。 特に殺人ピエロ キラークラウン の時代は手品はお手の物でした。 「次は君がやってごらん」と手錠を渡すと後ろ手に手錠をはめます。 焦る少年を見て楽しみながら、ナイフで脅して強姦します。 その後、少年の首にロープをかけます。 ロープに棒を絡めてねじりあげます。 じわじわと締め上げるときに少年が苦しみます。 その姿にジョン・ゲイシーはひどく興奮したと語っています。 こうして少年をなぶり殺すのが、ジョン・ゲイシーの犯行手口でした。 軽建設業社長として忙しい毎日を過ごしていたジョン・ゲイシーは、週末になると道化師ポゴくんに扮して福祉施設などを慰問します。 ここで少年に目をつけます。 少年には「うちでアルバイトをやらないか」と声をかけるのです。 まさに殺人ピエロ キラークラウン です。 寝る間も惜しんで働き、地域活動も精力的にこなすジョン・ゲイシーは地元での名士となり、当時のカーター大統領夫人と握手する写真を残しています。 多忙を極める生活で睡眠時間を削るために麻薬に手を出し始めます。 最初の殺人の経験から、殺害した少年の遺体は自宅床下に埋めたり、近くの川に投棄していました。 1975年に再婚したマリリンと離婚します。 その後は麻薬と酒の量が増え、少年の殺人も増えます。 ジョン・ゲイシーの事件が発覚するきっかけになったのは、1978年12月11日、15歳の少年だったロバート・ビーストの行方不明事件からでした。 遺体から発生する有毒ガスと地下水とシカゴの冬の寒さのために、作業は困難を極めました。 有毒ガスのためにガスマスクが使われましたが、それでも気分が悪くなる作業員が後を絶ちませんでした。 その日のうちに10の遺体が発見され、翌日には6つの遺体が発見されました。 ジョン・ゲイシーは自宅に被害者たちの身分証明書などを捨てずに放置してあったため、遺体の身元照合はすぐにできました。 11月に近くのデス・プレーンズ川で見つかった遺体の身分証明書も、ジョン・ゲイシーの自宅から見つかりました。 ロバート少年を含む4人の遺体は近くの川で発見され、ジョン・ゲイシーの自宅床下・ガレージ・庭から合計29の遺体が見つかりました。 あわせて33遺体という恐ろしい事件になりました。 1980年2月6日からジョン・ゲイシーの裁判が始まりました。 ジョン・ゲイシーは多重人格による犯行であり、いまの自分は無罪だと主張します。 弁護側も多重人格症による心神耗弱であるものと弁護します。 精神鑑定を行った結果、ジョン・ゲイシーのIQは非常に高く、脳障害の疑いも無かったことが分かりました。 検察側は多重人格は数ヶ月前に新聞に掲載されたビリー・ミリガン事件を真似しただけだと非難します。 最終的に陪審員たちはわずか2時間で協議を終えます。 「精神の異常さは認めるが、そのことが33人の被害者を生む理由にはならない」として、1980年3月12日に33人の被害者に対してそれぞれの判決が出ます。 それは12回の死刑と21回の終身刑でした。 ジョン・ゲイシーはTVインタビューなどにも積極的に出演しています。 このため精神学者や各分野の研究者の研究対象となり、多くの論文が発表されています。 当時18歳のジェイソン・モスは犯罪心理学を勉強する全米レベルの成績優秀者でした。 ジェイソン・モスの将来の夢はFBIの精神鑑定士でした。 ジェイソン・モスは当時の凶悪犯人たちと文通する趣味を持っていました。 ジェイソン・モスはジョン・ゲイシーに手紙を送り始めました。 ジョン・ゲイシーは、ジェイソン・モスがどんな少年かを探るために返信します。 ジェイソン・モスは犯罪者の心理が分かり始めたと勘違いします。 ジョン・ゲイシーはジェイソン・モスの電話番号を聞き出し、二人は電話で話すような関係になります。 ジョン・ゲイシーは言葉巧みにジェイソン・モスを刑務所に呼び出します。 非のない少年たちが被害者になるということは、親からすれば言葉にできないほどの悲しみです。 裁判所で死刑が言い渡されたときに拍手喝采が起きたのは、親の気持ちからすれば自然なことです。 また上告を繰り返すジョン・ゲイシーに対して即時死刑執行を求めるデモが起こったのも、被害者の関係者だけではなく子供を持つ親たちが中心となっていました。 子供を笑わせるはずの道化師が、殺人ピエロ キラークラウン であった事実はアメリカに衝撃を与えました。 アメリカの誕生日会には道化師を呼んで、風船で動物を作ってもらったり、手品を見せてもらって楽しませてもらう習慣がいまでもあります。 殺人ピエロ キラークラウン 事件は子供を持つ親には、たとえ名士であったとしても簡単に信用してはいけないと後世に伝えるほどの重大な事件だったのです。

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