足利二つ引両と似たものに、「丸に二つ引」と「丸の内に二つ引」などがありますが、引両と丸輪が一体化しているか否かで区別します。 しかし、竜王丸が十七歳になっても範満は家督を竜王丸に戻そうとしなかったため、長氏は駿府館に範満を攻め、竜王丸の家督相続ということになり、竜王丸は氏親と名乗った。
現実的に考えて、4万の軍で一度に京都まで行けるとは思えません。
義元 9代• そのとき義忠の嫡子竜王丸はわずか六歳であった。
範国は駿河国と遠江国の守護を兼任しました。
『宗長日記』によれば永正15年(1518年)頃から病気で領国統治も軍事行動も行えなくなったとするが、その後も発給文書を出している上、義元の誕生前にあたるため、初めはそこまで重くなかったとみられる。 将軍家に連なる名家中の名家として古くから栄え、戦国時代にも有力大名のひしめく東海地方において一大勢力を誇った今川家でしたが、今川義元の討死から数年で大名としての今川家は滅亡してしまいます。
13徳川家康をはじめとする家臣たちも離反し、さらには同盟を結んでいた武田信玄にも裏切られ所領を失ってしまいました。 概要 [ ] 前述のとおり、今川家は足利一門においてとされ、の親族としてのを有し、からとして遇されたの分家にあたる。
生涯 [ ] 出生 [ ] 父・義忠がで東軍に味方して上洛していた時に、母の北川殿と結婚したと考えられている。
当時は、13代目の「足利義輝」が将軍でした。
さらに1554年(天文23年)には、子の「今川氏真」(いまがわうじざね)が「北条氏康」(ほうじょううじやす)の娘を正室に迎え、北条家とも同盟を結びます。
しかし尾張国桶狭間(現在の愛知県)で、「」としても有名な織田軍の奇襲を受け今川義元は討死。 このために氏親は母とともに身を隠したと考えられている。 ここでも貞世が今川氏の家督を継ぐよう家中の要請を受けたようですが、彼はあくまでも固辞しました。
4このとき範政は出羽国や安房国の一部の領土を恩賞として与えられましたが、持氏がこれを妨害。 これは幼少時に小鹿範満に追われた時に龍王丸を保護した法永長者(長谷川政宣)がを開いたの門人・の庇護者で、氏親も賢仲や同門のを深く崇敬して曹洞宗の保護に積極的であった。
1338年(暦応元年)に「今川範国」(いまがわのりくに)が駿河国(するがのくに)の守護となり、駿河今川家が誕生。
河東の乱はの当主・(信玄)の仲介もあり今川・後北条氏間では同盟が結ばれ、さらに武田氏との間でもが結ばれており、三者の関係は、 に発展する。
今川義元など今川家は室町幕府の将軍である足利家の一族で、用いていた引両紋もこの足利一族が利用していた家紋でもあります。
これにより今川家は、自ら領地を治める戦国大名へと変化していきました。
なお、黒田・大石ともに氏豊・は江戸時代初期の今川氏の系譜にみられないことから、氏親の子ではないとする見解を採り(今川氏一門の出身であった可能性はある)、黒田は氏親の女子で実在を確認できるのは、室(徳蔵院)・室・室()・室の4名 とし、瀬名氏俊の実弟であるの室を義元の妹とするのは兄・氏俊との誤認と推測している他、の室やの室に関しても『』には記述があってもそれよりも古い『』には記載がなく事実ではないとする。
どちらも戦国の世を生き抜いた 今川義元の熱い思いや願いが、ぎっしりと詰まった「家紋」でした。
名前は親永とも伝わる。
今川国氏• しかしここで思わぬ事態が起こります。 「日本の家紋」『家政研究 15』 奥平志づ江 1983 文教大学女子短期大学部家政科• だが3年()を最後に活動が見えなくなった。
14万もの大軍団をひきいて尾張国へ出陣した今川義元は、わずか2千の軍団をひきいた織田信長に敗死したのでした。 天文4(1535)年、今川勢は甲斐国へ侵攻しました。
だが、龍王丸が15歳を過ぎて成人しても範満は家督を返そうとはせず、家督奪取の動きを見せて龍王丸を圧迫した。
氏親も宗瑞に兵を貸してこれを助けている。
泰範 3代• 小和田哲男 『駿河今川一族』 新人物往来社、1983年。
ただ1つ言える事は、赤鳥紋と動物の鳥は何の関係もないということ。 当時、家督は長男が継ぐものと決められていましたので、5男の義元は家督相続から遠い存在となり、仏門に入ります。 引両紋と呼ばれる家紋の一種であり、一つ引両、二つ引両、三つ引両などの家紋があります。
4反対派を破り、義元は今川家当主となりました。 戦国時代から後も、新選組の局長の 近藤勇 こんどういさみも足利二つ引両ではありませんが、引両紋を使っています。
今川義元はなぜ「足利二つ引両」を家紋として使用していたのか? 今川義元はなぜ、「足利二つ引両」を家紋として使用していたのでしょうか? その理由は、今川家のルーツにあります。
最初は優勢だった今川軍でしたが、 桶狭間で織田軍の奇襲を受け、義元は命を落とすこととなってしまいました(桶狭間の戦い)。
また、自身の家中による領国統治や周辺諸国との折衝等、内政や外交にも優れた手腕を発揮したことが記録からうかがえ、決して家格と武力だけに頼った人物ではなかったとして近年その評価が高まりつつあるようです。
今川氏の歴代当主は臨済宗を重んじてきたが、氏親だけは曹洞宗を重んじてきた。 同年、北条軍は駿河国まで侵攻し、家督争いで疲弊していた今川軍は家臣の統制が取れておらず、北条軍に河東(岡県東部)を奪取されました。
当主の多くは彦三郎を通称とし、刑部大輔・越後守を名乗った。
なお、氏真の次男のもに出仕し、を称して 本家とともに高家に列した。
赤鳥紋 今川義元が使っていた、もう一つの家紋が 「 赤鳥紋 あかとりもん」です。
氏親は出陣して引馬城を包囲。 『見聞諸家紋』 室町時代 (新日本古典籍データベースより)• この武田氏の政変と今川氏・の介入の背景には足利政知没後の堀越公方の内紛と関わりがあるという見解も出されている。
歴史研究の進展とさまざまな視点の広がりから、その事績を公平かつ冷静に分析する風潮が高まっています。
系図で今川家は吉良家の分家になり、吉良家は室町将軍家の分家であることから、 足利将軍の跡継ぎがいない時には、吉良家がその後を継ぎ、 その吉良家にも跡継ぎがいない時には今川家がその後を継ぐという家柄でした。
圧倒的な戦力差がありながら、寡兵による奇襲攻撃ではるかに格上の軍を破り、織田家の栄華への第一歩となったといっても過言ではない出来事です。
通説では龍王丸は今川館に入ってして 氏親(「氏」の字は本家・のに由来)と名乗り、今川家の当主となったとされている。 戦勝で拝領した甲冑の文様が家紋の由来との説もあります。 鎌倉府と室町幕府の対立が激しくなっており、室町幕府にとって防衛拠点である駿河国を信頼できる者に任させる必要があったのです。
11スポンサードリンク 赤鳥紋を使った戦国武将「今川義元」 今川義元は代々赤鳥紋を軍旗に使用しており、「赤い鳥と軍を進めれば勝つ」という神託を受けたことがきっかけと言われています。 馬の鬣を整えるための櫛が家紋になったとも言われています。
今回の内容をまとめると• また、安倍金山を開発して財力を増した。
範満が頼りにしていた太田道灌は既に主君のに殺害され、堀越公方足利政知も幕府との関係から龍王丸支持へと切り替えていた状況下で行われたとみられている。
伊勢新九郎が素浪人と考えられていた頃は抜群の知略による後の北条早雲の飛躍の第一歩のように語られていたが、近年の研究で伊勢氏の一族の幕臣伊勢盛時であることがほぼ明らかになっており、これはの意向を受けて盛時が駿河へ下向して今川家の内紛を調停したと考えられている。