(平成22年)午後9時50分頃 「」5号の通過をもって営業運行を終了 し、同日深夜に行なわれた同列車上り返却回送をもって車両運用をすべて終了した。 下部構造は橋脚4基と橋台2基で構成され、旧橋梁と同様に起点の京都側から第1号 - 第4号の橋脚番号が付けられている。
20『余部鉄橋物語』、2010年7月30日。
176名の乗客が香住駅で下車した直後の出来事だった。
橋の上に敷設する軌道は、長大スパンのPC橋でクリープや乾燥収縮による桁そりの変化量が大きいことから、保守性を考慮してを採用している。
足場の建設から解体まで、橋脚1基につき約40日かかり、同時に3基から5基程度の橋脚を並行して作業を行った。
- 神戸新聞ミントクラブ 2006年3月23日• 3月:兵庫県、鳥取県などの沿線自治体とJR西日本とで、架け替えに関する基本協定が結ばれる• 日本語でいうと「鋲(びょう)」。 2010年9月13日閲覧。 到着後、航海中に生じた錆を落とすなどの整備作業が実施された。
16こうした事情の背景には、まだ新橋の工事中であるにもかかわらず鉄橋が既に撤去されたものと誤解していた人が多かったためと推測されている。
さっきの鳥取行きをここで狙うべきだった。
「あまるべ」、鉄道に多少なりとも興味を持った者には、懐かしい地名である。
作業後に忘れ物を取りに戻ったとき、いつもより早い時間に起動されてしまったという、いわば偶然が重なった結果であった。
建築様式はトレッスル式鉄橋(トレッスルとは「架台」「うま」という意味)で、当時の鉄道院技師古川精一氏などにより米人技師の意見を取り入れ設計された。 准教授 福田 隆文 (ふくだ たかふみ) 1979年横浜国大工学部卒、同年東洋電機製造(株)。
しかし、起訴された3人の指令員がその慣行に従ったのは無理もないとして執行猶予を付した。 。
2007年8月6日閲覧。
278 - 283• 10月:橋桁の架設作業を開始• 山陰本線、を、できるだけ短く、かつできるだけゆるい勾配で結ぶために苦心惨憺した結果、最後の結論がこれだったという。
道路を渡って近づいてみると、しっかりした説明板もあって、少なくともええ加減に放り出してあることではないことがわかってきた。
・・・・気がついたら「無料区間」との但し書きがついた高速に乗せられていた。 NetNihonkai-日本海新聞 2010年8月13日. 同年に「余部鉄橋定時性確保のための新橋梁検討会」(座長: 松本勝京都大学教授)を設置して、大学教授、JR西日本、鉄道総研、地元の関係者などが新橋梁に対しての各種案件の検討を行った。
15線路直角方向の水平材は、幅10インチ(下3本)と8インチ(上3本)の溝形鋼を背中合わせに2本配置して綾材で結んでいる。
列車指令員が、運転停止とすべき状況を知らされているにもかかわらず、 列車を抑止しなかったことなどが原因であった。
ドアが一斉に開閉する方式に慣れている目には珍しかった。
向こうののトンネルまで直線でつながる所をきっり撮りたかったが、何か白いものが見える。
8月11日:新旧切り替え工事完成• これを聞いた列車指令員が鉄橋の両端に設置された 「特殊信号発光機」(五角形で五つ目の赤灯のある信号で、 赤いランプが回って危険を知らせる信号機)を遠隔操作することによって、 列車をとめるという安全システムを具備していた。 橋脚の組立作業は鉄道院の直轄工事として行われ、下請けとして大阪の上州屋がを請け負った。
14もちろんエアーターミナルではない。
なお、列車の乗客176名が香住駅で下車し回送列車となっていたのは、 不幸中の幸いであった。
それはいいんだけど、余部の道の駅へは寄りたい。
慣例はルールを無視して、容易に形成されてしまう。
展望所は橋梁の架け替え工事に伴って(平成20年)4月11日以降一時閉鎖されていた が、橋梁切替時期から供用再開を望む声が多く寄せられ、香美町の定例議会で提案が2010年9月に可決され、補修工事後2010年11月3日に供用が再開された。 12月16日:旧橋梁着工、基礎工事に着手する• 新橋梁の供用までは旧橋梁を残して営業運転を続けるため、新橋梁の架設位置は、レール中心面間隔で旧橋梁よりも約7m南側(内陸側)となった。
2010年7月17日から区間運休した上で、旧橋梁の起点側を一部撤去し、新橋梁の橋桁を横移動(7月20日)・回転(7月23日)させて架設する 「橋桁移動旋回工法」を実施した。
展望台までの行程 展望台・餘部駅 10分足らずで餘部駅へ着く。
その横のレールが展望台につながっていた。
トレッスル橋案選定後にも米子出張所の技師が、海に近い余部に鋼製の橋を架けると後々腐食対策で保守経費がかさむことを懸念して、日本国外の橋梁を勉強したり、母校の土木工学科教授に相談した結果、製のを建設することを上申した。
明治45年、鉄橋はできたけれど、昭和34年まで余部に駅はなく、通勤通学には、列車通過の合間を見て、余部鉄橋を歩いて渡り、約1.8Km離れた鎧駅まで歩いて通っていたという。
時間はたっぷりある。
同日香美町香住区中央公民館で「全国鉄橋サミット」開催• (平成21年)春から桁の工事に入った。
塗装の費用は13,440円であった。 これらの要因から、地元住民の中には鉄橋を「」と考える者もおり、橋梁直下にある浜自治会の意向としては「新橋梁への架け替え」と「旧橋梁の全面撤去」を希望する意見に傾倒していた時期もあった。 うちの近所三上山の登山口に「山の駅」というのがある。
3オットット、横の網ばかりに気を取られていたら、なんと行く先には、これは怖いぞ。 一方「余部橋梁」の書き方も、構造物設計事務所の作成する橋梁設計図面などで見られる。
12月:余部鉄橋定時性確保のための新橋梁検討会設置• 1955年(昭和30年) から繰り返し陳情をした結果、1959年(昭和34年)1月に駅設置が決定された。
ルールやマニュアルの本質を理解する必要がある。
雑誌記事 [ ]• 一方で大都市に対する安価な労働力の供給源ともなり、鉄道開通後は人口の増加率が鈍るようになった。