さだまさし 体調。 さだまさし

ノート:今夜も生でさだまさし/放送内容一覧

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ぶっつけ本番の人気番組『生さだ』の舞台裏とは? さだまさしがラジオのDJスタイルで軽妙なトークを展開する『今夜も生でさだまさし』(NHK総合、通称『生さだ』)。 視聴者がハガキで寄せる質問や悩みに対して、さだが豊富な知識と経験を生かしながら、台本なしで答える深夜の生放送番組だ。 さだの素顔を探る短期集中連載の第2回は、『生さだ』プロデューサーの飯塚英寿氏と、番組でさだの隣に座る構成作家の井上知幸氏の対談を紹介。 ぶっつけ本番の人気番組の舞台裏とは? * * * 飯塚:さださんとは1991年の『紅白歌合戦』の楽屋で話した記憶があってそれ以来のお付き合いです。 その前はちょっと覚えてない(笑)。 さださん、新しい番組企画に興味がある方なんで、「なんか面白いことやろうよ」といろんなネタを持ってきてくれる。 で、いよいよ番組を立ち上げようということになって……。 井上:さださん行きつけのホテルのバーに呼び出されたんです。 飯塚さんから「企画があるから来ないか」と。 さださんと面識はありましたが、きちんと話したことはありません。 実は行く前からビクビクしていて、内心、嫌でした(笑)。 ところが会ってみたら、気さくで冗談ばかり。 まったくふざけた方でした。 飯塚:それで3人で毎週のように会って話すようになりました。 私は当時主流の「作り物」が嫌で、そうじゃない番組を作りたかったんですが、その流れで、「どこかへ行きたいですね」となった。 そしたらさださんが「そういえば頼まれて岐阜の谷汲村(たにぐみむら)ってとこの村の歌を作ったけれど、一度も行ったことがない」と。 「無責任ですね~」と返しながら、「じゃあそこに行ってみましょう」ということになった。 井上:その時のさださんが、「旅番組は多いけれど必ず行く前からカメラが待ち構えている。 それはおかしい」「約束事のない旅番組をやってみたい」と言う。 これに飯塚さんも僕も食い付いたんです。 当時は誰もやっていなかった。

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さだまさし、歌詞への非難に映画製作の借金28億…逆境の心境を語る

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スポンサーリンク さだまさし ヴァイオリンで上京?• 本名:佐田雅志(よみかたは同じです)• 生年月日:1952年4月10日• 出身地:長崎県長崎市 さだまさしさんは材木商を営む父親の元、長男として長崎県に生まれました。 幼少期から音楽に親しみ、3歳の頃からバイオリンを習い始めたんですよ。 そのヴァイオリンの腕前は非常に素晴らしく、小学5年生の時の学生音楽コンクール(九州地区大会)で3位、 そして翌年の同コンクールでは2位を受賞したという実績があります、すばらいですよね。 その才能を当時のヴァイオリン指導者の方にまで認められ、さだまさしさんは中学入学と同時に単身で上京しました。 最初の一年間は、東京に住んでいるおじさんの家に下宿していましたがなんとそれ以降は一人暮らしをしていたんですよ。 まだ高校生に上がる前からよく一人でがんまれましたよね。 ヴァイオリンの練習をする日々を過ごしてきたさだまさしさんなのですが、 高校生に入学すると同時にヴァイオリンに対する熱意が冷めてしまいます。 音楽の道には進みたいと思っていたさだまさしさんは、ギターや作詞作曲、さらには小説作りや落語まで興味を持ち没頭していたんだとか。 ちなみに、若い頃のヴァイオリンをひいているさだまさしさんの画像をのせています。 いかがですか、めちゃくちゃイケメンですよね。 しかも爽やかで優しい感じのイケメンだったんですね! 「グレープ」がイケメン!?いよいよ全国デビュー! 大学に進学したさだまさしさんは、ほとんど通うことなく中退してアルバイトで生計を立てていたのですが、体調を崩し長崎に帰郷しました。 そんな長崎の家に高校時代からの友人が訪ねてきて、一緒に住むことに・・。 その後、二人は意気投合しバンドグループ「グレープ」を結成し音楽活動をはじめます。 しかし当時はなかなか人気が上がらず苦労したんです。 そんなさだまさしさんに転機が起きました、なんと音楽プロデューサからスカウトされ全国デビューを果たす事になったのです。 しかし、先ほどのグループ結成時同様最初からはなかなか売れず、友人などに無理やりレコードを買わすという実態だったそうです。 セカンドシングルで、あの今現在もずっと愛されている名曲「精霊流し」を発売します。 無名歌手がいくら名曲をだしたからといって聞いてもらわないとヒットはしません。 しかしそのレコードはなんと東海ラジオの深夜番組の中で、週1のペースで流れていたそうで、 それが助けとなって全国的なヒット曲になったんです。 「精霊流し」はこの年の日本レコード大賞詩作賞として受賞しました。 当時、デュオとして「グレープ」は「無縁坂」「縁切寺」などヒット曲を世に送り出し活躍を続けていましたが とある事がきっかけとなり1976年の春に解散をしました。 当時の解散コンサートで解散理由についてを「精霊流し、無縁坂、縁切寺ときたらもう後は墓場しかない。 」 とファンに向けてさだまさしさんはコメントしたのです。 ちなみに「グレープ」時代の画像がありましたので載せますね! やはり若い頃のさだまさしさんイケメンですよね、相方さんも非常に爽やかなイケメンという二人ともアイドル的なビジュアルだったんですね。 当時女性ファンも多かったのではないでしょうか。 スポンサーリンク 若い頃の画像で紹介、さだまさしさんの関白宣言とは! 体調を同時期くずしていたさだまさしさんは、一旦治療に専念するために解散を機に業界うを離れました。 しかし会社に就職するという気力もなく結局ソロの歌手として芸能界で生きていこうと決意しました。 設立してすぐに150万枚を越えるヒット作品をだしたんです。 それが「関白宣言」なのです。 結婚する事が決まった男性が「亭主関白」になると宣言しつつも、相手への依存心や自分の弱さなどで、 結局不器用な事しかできないという内容をコミカルに歌い上げた曲です。 この「関白宣言」なのですが、さだまさしさんが通っていたスナックのママが「最近の男はだめになってきた。 だから若い娘たちもだめになったのよ。 さださんそういう歌を作ってよ!」といったそうなんです。 それがこの作詞づくりのきっかけとなり、作られたのが「関白宣言」だったのです。 しかもこの楽曲はシングルではさだまさしさんの最大ヒットでありミリオンセラーになったのです。 ちなみに余談ですが、この後さだまさしさんは「関白失脚」というアンサーソングもだしているんですよ。 「関白宣言」してみたものの、うまくいかなかった。 今や、家族にも相手にされず飼い犬しか話相手がいないという中年男性の悲哀を表現した内容の曲なんです。 「亭主関白」は聴いた事があるのですが、このタイトルの曲はまだ聴いたことがないのでぜひ聴いてみたいです。 当時の若い頃の画像も載せていますので、ぜひ確認してみてくださいね! 噺家としてのさだまさし さだまさしさんの歌は結構物静かでどちらかというと歌詞も暗いかんじの楽曲が多いですよね。 しかしながら、元々は明るくしゃべることが大好きな性格なんです。 なんと高校や大学時に落語研究会にも所属していたんですよ。 なので歌手として活動していても「人生は明るくし、歌は暗くする」と決めているんです。 コンサートでのさだまさしさんはMCなどにも特に力を入れており、3時間のコンサートでは大体1時間はトークに当てるみたいなんです。 さらにすごい時には結局歌よりもトーク時間が長くなったという時もあるらしいですよ。 気になるトークの仕方ですが、ほとんどが落語や漫談のような話し方で、実際の落語家の新人さんなども 「さだまさしのコンサート」に勉強しに来ることもあるんだとか。 あまりにもそのトーク力がすごすぎ、なんとトークだけを収録した「さだまさしトークベスト」というCDもだしたんです、すごいですよね! 確かに曲の印象的には大人しい方なのかなと思ってしまいますが、こんなにも明るい性格をしていて話もうまいとなると、 トークに関しても興味がわいてきてしまいますよね。 まとめ いかがでしたでしょうか。 幼少期のバイオリン少年からギターを片手に偉大なシンガーソングライターへと成長してきたさだまさしさん。 若い頃の画像、本当にイケメンでしたよね。 「関白宣言」という最大のヒット曲をうみだしたさだまさしさん、本当に現在まで様々な曲でヒットをとばしていますよね。 本当にさだまさしさんのだす曲ははいいものばかりで、私も未だにいろんなところで聴く機会があります。 今後も、歌にトークにと活躍していってほしいですよね。

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服部さん訃報に悼む声…さだまさし「先生の言葉は僕の背骨に」

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さだまさしの「椎の実のママへ」という歌を初めて聞いた。 さだまさし独特の物語風の歌である。 <さだまさしの「椎の実のママへ」> 「椎の実のママへ」 作詩・作曲:さだまさし 漢口(ハンカオ)の春は 大使館の柳の青 それから池に降る その花の白 甘露園のコール・コーヒー越しに うちあけられた愛 それが春 漢口の秋は 焼き栗のはじける香り 読み終えた文庫本で うけとめた愛 かぞえの二十二で嫁いでそのまま 終戦を迎え だから秋 天津からひきあげたあと七年たって彼女にとって初めての そして最後の子供を産んだ 夫は優しくて働き者だったから 誰もが彼女を幸福(しあわせ)とよんだし 確かに幸福なはずだった いくつかの春は 知らず知らず人を変え 淡い思い上がりが その心を変え 煙草とコルトレーンの中で二度目の恋をみつけて それも春 ひとつ屋根の下で やがて別の愛 それぞれが違う 愛を過ごして 一人息子だけが取り残される形で 終わるも愛 つまり秋 みんなの謗(そし)りの中で 彼女は故里の長崎へ帰って 小さな喫茶店をはじめた 「椎の実」のママを慕って沢山の若者達が集まって 「椎の実」はいつでも 煙草とコルトレーンで一杯だった 僕と同い年の一人息子は おきまりの様に ビーチボーイズを聴き乍ら一度ぐれたが 自分の足で歩き出す迄に随分迷ったけれど やがて歩き出した 彼は父親を愛するのと同じ位に 母親を愛していたし 僕はそんな彼が大好きだった 長崎の春は 黄砂と凧上げ 一人息子は母と暮らすと決めた 小さな店のカウンターに二人で 立てたらいいねと そんな春 彼がもうひとつの 愛を手にした頃 母は突然に病いをみつけた 癒るはずのない病名を知らされて 立ちつくしたのは それも春 まさか彼が母より先に まさか逝っちまうなんて 誰も思わなかった だって恋人と海に出かけて オールを流されて 飛び込んだまま だって昨日まで 元気だったんだもの 母は嘆き悲しみ出来るなら私とひきかえにと 今までを悔やんだ ねェ早かったよ ねェ早過ぎたよ 僕は彼の為に 唄を作った…… ジャズとクラシック以外は耳を貸さなかった彼女が 僕の唄を愛する様になったのはこの頃だった 自分の残り時間のすべてをかけて 息子の為に祈り それと同じ位に 僕を 僕の唄を愛した 三度目の手術の後は 彼女の生き甲斐だった お店にも立てなくなってしまい それでも生きようとしたのは この時初めてひとつになった 彼女の兄弟達の心と 死んだ息子の為だったと思う 思い起こせば 誰も彼も皆 本当はとても愛し合っていた わずかなすれ違いが物語を 変えてしまうなんて それも愛 椎の実のママが 死んだ晩に みんな同じ色の涙を流した 結局愛されて死んでいった彼女は 幸福だったと 思っていいかい ねェ愛されて死んでいったあなたは 幸福だったよね そうだよね さよなら 椎の実のママ さよなら 僕のおばさん この歌はどんな歌かとNetでググってみると、1979年10月12日発売のシングル「親父の一番長い日」のB面だという。 もう40年近く前の歌だが、自分はいままで巡り会わなかった。 そして、この物語は、「精霊流し」が作られた背景を歌っているようだ。 Wikiの「親父の一番長い日」の項に、こんな記述がある。 「「椎の実のママへ」は、さだの母方の叔母に当たる女性の生涯を描いた楽曲であり、叔母への哀悼歌である。 彼女は離婚後に故郷の長崎で「椎の実」という名前のスナックを経営しており、それがタイトルの由来となっている。 彼女の息子(さだの従兄)の水難事故死が、 さだが「精霊流し」を制作したきっかけとなっていた。 その事実が歌詩中にも触れられている(同時に「精霊流し」のイントロから冒頭にかけてのメロディが挿入される)。 さだにとってあまりにも重いテーマの楽曲であるため、さだはコンサートでは決してこの曲を歌おうとしなかったが、デビュー20周年コンサートでその封印を解き、レコーディング以来14年ぶりの歌唱を行った(ライヴ・アルバム『のちのおもひに』に収録)。 その際、オリジナルの歌詩の一部に史実に反する箇所があったとして歌詩を修正している。 シングル盤の歌詩では漢口の「大使館」と歌われていたが、当時漢口には大使館はなく、あったのは日本領事館であったため「領事館」に改められた。 レコーディングはさだ1人の演奏による弾き語りの形式で行われた。 ライナーノーツにはさだの母親に対する献辞がある。 さだの自伝的小説『精霊流し』を原作とするドラマおよび映画においても、この叔母をモデルとするキャラクターが重要人物として描かれる。 」 ()によると、叔母さんの病気は「末期の子宮がん」だったようだ。 また()によると 、「長崎では凧のことを「ハタ」と呼び、ハタ揚げは長崎くんち、精霊流しなどと並び長崎の三大行事の1つに数えられている」のだそうだ。 自分が知っている同じような歌では、「償い」()、「風に立つライオン」()がある。 さだ独特の旋律で、素人にはとても歌えない。 しかし、何故か心に響いてくる。 やはり事実を背景にしている歌だからかも知れない。 こんな歌を聞きながら、自分の伯母さんを思い出した。 お袋の4つ年上だった「焼津の伯母さん」は、我々が子どもの頃、最も近しい親戚だった。 戦後、満州から引き上げ、焼津に住んでいた。 子どもが出来なかったことから、自分がお袋のお腹にいた頃、是非欲しいと言われていたそうだ。 その後、自分の3つ下の養子を貰った。 清人という従兄弟が、伯母さんの本当の子どもで無いと知ったのは、だいぶん後。 前にも書いたが、伯父夫婦は血のつながった我々兄弟を可愛がってくれて、毎月、小学館の「小学一年生」のような雑誌を送ってくれた。 毎月、それは楽しみにしていた。 それが突然途絶えた。 伯母さんの夫は、けんかっ早い性格だったらしく、ある夜、友人が呼びに来て、出かけていったっきり、帰らなかった。 翌朝、海岸で死体で見つかった。 犯人は分からなかったという。 それが伯母さんの苦労の始まり。 自分は当時、小学校低学年。 お袋が赤ん坊の弟と一緒に焼津に行ったことは覚えている。 当時住んでいたのは埼玉県の与野。 田中計器の寮に住んでいた遠い親戚の家に預けられ、そこから学校に行った。 その後、美人だった伯母さんは、再婚の話も多かったというが、息子の為にそれをしなかった。 そして息子が高校を卒業するまで、焼津で雑貨屋を営んでいたが、その後、お袋を頼って、お袋のいる竜ヶ崎に引っ越してきた。 それを橋渡ししたのは自分だった。 学生の頃、旅行すると、いつも焼津に寄ってはたくさんの小遣いを貰っていた。 その時、引っ越したいという話を聞いて、お袋に伝えた。 それからまもなく、引っ越してきた。 清人という従兄弟も、新聞配達の仕事をしていたが生活は荒れていたらしく、我々従兄弟とも伯母とも縁が切れたまま、数十年の時間が過ぎた。 そして2007年3月7日、警察から、アパートで孤独死しているのが発見されたという電話があった。 生活保護を受けていたが、お金を取りに来ないので、アパートを調べたら亡くなっていたという。 死亡推定は2週間前の2月20日。 認知症で特養に入っていた伯母は、息子が亡くなったことが理解出来なかったようで、それがせめてもの救い。 そんな伯母も、東関東大震災の2日前に、93歳で亡くなった。 交通がマヒしている中、葬儀は弟がすべてを取り仕切ってくれた。 そんな伯母の人生だった。 改めて血のつながりを思う。 伯母さんを特養に入れることに奔走し、清人を焼津の墓に葬ったのは兄貴だった。 上に書いたように、兄貴も自分も、学生時代に旅行の帰りに焼津を訪れ、多額の小遣いを貰った。 そのことは、年月が経っても忘れなかった。 その恩を返すためもあり、伯母さんの老後は息子に代わって我々が動いた。 それが伯母さんと甥の我々兄弟の関係だった。 こんなことを思い出すのもお盆の供養かも・・・ さて、8月は、お盆と終戦と高校野球のシーズン。 近くの会社の新築工事も、全面休日。 そして今年は、リオ・オリンピックで毎日が騒がしい。 そんな喧噪の中でも、お盆が静かに過ぎて行く。 自分の親父も8月15日、20回目の命日を迎えた。 なぜか、こんな歌が心に沁みる、暑い夏の夜ではある。 エムズの片割れさま 私は長崎県佐世保市出身、高校までは佐世保在住でした。 さだまさしは私が一番最初に買ったレコード(ソノシート)です。 グレープの「雪の朝」 何度も繰り返して聴いたものです。 映画「風に立つライオン』も観ましたよ。 私の友人に、このブログを紹介したところ、自分のブログ(すすきめいげつ)で記事にしております。 私はブログを書く時間はないので、 facebookでシェア致しました。 ご了解下さいませ。 【エムズの片割れより】 佐世保は(たぶん)行ったことはありません。 でもお袋は、長崎市生まれですので、縁が無い事も無い!? 「雪の朝」のEPを立川で買った時は、自分も良く覚えています。 それ以来、特に初期のさだ作品は今でも良く聞いています。 投稿: 風雅 2016年8月22日 月 03:42.

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