鳴尾は武庫川下流の砂礫地がなだらかに海へ広がる地で、「ナル」「ナラ」が付く地名に多い緩やかな傾斜地である。 しかし戦後に財政事情が悪化し、西宮・尼崎両市からの合併宣伝合戦の末、住民投票で西宮市への合併が決定した。
参考文献 [ ]• などしてくださる()。
戦後復興の中、海岸部にはやといった高層団地が建てられた。
これが平左衛門新田となり、丸島はその後尼崎側と陸続きとなって、鳴尾村域が武庫川の左岸に小さな村域を有することになる。
埋火葬許可証の交付• したがって鳴尾と呼ばれる範囲は時代が進むごとに拡大している。
『』に村名が見え、559石。 古くは「成尾」とも見え、武庫川右岸に位置する。
甲子園口一丁目 - 六丁目• 9年()には武庫川尻の丸島(現・尼崎市域)の鳴尾村による開発を巡り鳴尾浦に入漁料を支払っていた尼崎浦が漁場利用権の侵害として異議申し立てをし紛争している。
床と称する地車様の楼台2つを2箇所の広場に出して、音頭をとる者、三味太鼓の囃子方を務める者が楼上に集まり、多数の男女が周囲を廻って踊り、「鳴尾踊」と称した、近村から見物人多く有名だったが、暴飲暴食しその結果喧嘩口論等が常にあり、往々に殺人沙汰にさえなり、明治30年前後に廃絶された。
2020年6月4日• 2017年5月21日• 9年()には攻撃のためにを擁したの武将以下2万5千騎が鳴尾などに陣取った(『』)。
2017年3月31日• 浜は鳴尾本郷の事で、北鳴尾・八松・松村を合わせて上鳴尾(あげなるお)といい(『兵庫史学』)、海から遠いこちらの方が古い集落である。 印鑑登録• 2017年4月2日• 元年()からその翌年の『』には船頭「鳴尾大夫太郎」に名や「ナルヲ船」が見え、港湾機能と運送業者を有していた事がわかる。
15初期にはの西宮参拝に際し、当地にて衣冠化粧を整えて社参することが先例となっており(『』元仁元年11月7日条)、鳴尾の町場化が進み宿泊施設などの発達が示唆される。
2017年4月1日• 私立 小学校 [ ]• — 古来、景勝の地として松千鳥などが詠まれ、特に平安歌枕の地として有名である。
大正から昭和にかけて臨海工業地として発展し、武庫川の改修に伴い枝川・申川は廃川し、旧河道付近はとして開発され、、などが作られた。
はどれも戸長宅であり、名のみの存在だった。
枝川は後期に本流から枝分かれした川で、申川は5年()の年に枝川からした。
平左衛門町は武庫川東岸、田近野は武庫川西岸にあったのを、武庫川を西宮市と尼崎市との境界として整理するために交換した。
支所の管轄する区域• この項目は、に関連した です。
近世 [ ] 天正19年()夏には酷い旱魃により、鳴尾地内北郷に設置された用水樋を巡り瓦林三ヵ村とが起き、周辺の村々を巻き込んだ乱闘となり、の検使隊が派遣され糾明の結果鳴尾村の用水権を永年保証した(年不詳8月25日豊臣氏奉公人連署裁判状」蔵)を起こしており、『』天正20年10月23日条には83人が磔刑を受けたとある。
2017年4月16日• 明治38年()阪神電車が開通。 後期高齢者医療制度の受付・収納、および福祉医療費の助成の受付• 後に一つの鳴尾村となる三角州上の4村は別々の領主を戴いていた。 2017年4月25日• 古くからの景勝地として知られ、『』に〈遠く鳴尾の沖過ぎて〉とあるのは目印とされた一本松(現在五代目)に由来する。
15年(1587年)の討伐に従ったは鳴尾で「かへりみる都のかたの山のはもとをくなるおの沖津しら波」と詠んでいる(「楠長諳共奉道中宿所覚書」所蔵文書)。 (かつて存在した自治体警察) 外部リンク [ ]• 3年()、が鳴尾に塩湯のために下行しており(『』)、湯浴みの名所としても知られていた。
瓦木支所の管轄する区域のうち• 鳴尾地域を西宮から切り離していた支川は武庫川が大きく流路を変える荒れ川だった名残で、現況にほぼ固定したのは豊臣時代に完成した連続堤による。
2017年3月31日• 昭和41年 - 平左衛門町 鳴尾行政区域は昭和44年()の平左衛門町と尼崎市大字西昆陽字田近野(現在の田近野町)の換地 、昭和57年(1982年)の瓦木支所管内への編入、平成4年()埋立、平成9年()埋立により合併当初から約2面積増大した。
維新後 [ ] はとなり、この地区は4年()に区制()により第七区となった。
2018年6月5日• 教育 [ ] 幼稚園 [ ]• 歴史 [ ] 鳴尾里(なるをのさと) 小松(こまつ)の西(にし)、鳴尾村(なるをむら)をいふなるべし。 『28 兵庫県』熱田 公(編集)、落合 重信(編集)、戸田 芳実(編集)、八木 哲浩(編集)、石田 善人(編集)、田中 真吾(編集)、前嶋 雅光(編集)、角川書店、1988年。
埋め立て前の海岸線も、武庫川が運んだ土砂が堆積によって次第に形成されたものである。
周囲はに囲まれて、洪水になりやすい反面旱魃にも弱かった。
鳴尾村域では低湿地の開発が進み、上田新田・笠屋新田・砂浜新田などが開発され、上田新田は8年()して分村した。