銚子利夫。 法大助監督にOBで元大洋の銚子利夫氏が就任

銚子市立銚子高等学校 銚子利夫

銚子利夫

経歴 [ ] 2年生の時()、3年生エースを擁し、春()・夏()の甲子園大会に四番打者、として連続出場。 は準々決勝でに2-1で惜敗。 は全て圧勝で順調に勝ち進み、8月19日の決勝でを7-0で降し夏の甲子園同校初の優勝を飾る。 この大会から金属バットが初導入されたが篠塚は木のバットで打席に入り、2本塁打した。 準々決勝ではが5-4の延長15回の死闘で後のチームメイト、との対決が話題になったが、は銚子商の2年生4番サードの篠塚の攻守に渡る活躍に目を見張り、それが後のドラ1指名に繋がったと言われる。 銚子商の試合は前年の擁するとの雨天の延長12回サヨナラ四球ゲームが取り上げられる事が多く、全国制覇した1974年夏の大会は圧勝だったためか、あまりメディアには取り上げられていない。 翌年夏のは準決勝でのいたに1-2で敗退。 習志野高は夏の甲子園で優勝 し、2年連続で千葉県勢が優勝した。 甲子園優勝の後ににかかり3ヶ月間入院。 一時は野球生命まで危ぶまれたものの半年後に復帰した。 当時の監督だったに見込まれ、にて巨人から1位指名を受けて入団。 には一軍に定着、主に、として18試合に先発出場。 1979年オフにに参加した。 翌にはと二塁手の定位置を争い、6月にはレギュラーを奪取して二番打者に座る。 開幕当初は、藤田監督に代わりこの年のルーキーであったが二塁を守ったため出場機会が減少。 しかし5月には三塁手のが故障、原が三塁に回り、篠塚が二塁手のレギュラーに復帰。 以降は主に三番打者にすわり、内野陣が固定された。 同年は打率. 357(2位)を記録している。 通算打率も3割を超えている。 年間エラー数も僅か2回のみの年があるなど、守備機会の多い二遊間の選手としては驚異的であった。 1981年は(阪神)と争いし、わずか1厘差でタイトルを逃すものの自身の現役生活歴代で. 357という最高の打率を記録し、には自身初の首位打者を獲得。 にも(広島)と共に2度目の首位打者を獲得。 主力選手としてチームの6度のリーグ優勝、3度の日本一に貢献。 持病の腰痛もあり晩年は代打での起用が多くなり、に現役を引退。 藤田監督時代に三塁手、またデビュー当時は遊撃手としても出場した。 引退後は巨人の一軍打撃コーチ、一軍内野守備コーチ、一軍内野守備・走塁コーチ、一軍総合コーチを歴任。 からまでは、野球解説者、野球評論家を務めた。 に巨人の内野守備・走塁コーチに就任し、からまで打撃コーチを務めた。 また、イチローのセンター前ヒットで勝負を決した、の打撃コーチも兼任した。 からは再び日本テレビ、ラジオ日本野球解説者、日刊スポーツ野球評論家などを務めている。 2012年1月には韓国プロ野球・の臨時コーチを務めた。 主に1950年代に活躍した映画プロデューサーの(、、、らと親交があった)と女優のは夫人の父母で、俳優のは夫人のいとこにあたる。 長男の篠塚宜政はに在籍したのち、2012年春から社会人野球に所属。 2012年4月9日神宮でのHonda vs戦で、ルーキーとして2点リードの7回に代打で登場し、3球目の直球を右翼スタンドへ社会人初本塁打を放った。 同じく右投左打の二塁手。 人物 [ ] 現役選手として [ ] 巨人では主に3番打者や2番、6番打者、晩年は1番打者のを担った。 81年の. 357という高打率は巨人の日本人野手として73年の. 355 、61年の長嶋. 353 の記録を凌ぐ、高打率であった 51年の川上は91試合で. 377。 長打を狙うバッティングに瞬時に切り替えたり、広角に打球を操る器用な選手で、進塁打は打てたものの、バントなどを売り物にしてはいなかったため、制約のある2番バッターを任された1985年・1986年は打率. 307、. 291と成績を落としている。 85年に犠打26を記録しているが、チームは3位で貯金1であり、前年の首位打者にこれだけの送りバントをさせる采配がよいのか議論になった。 しかし、85年は阪神の優勝で沸いたため、大きな議論にはならなかった。 逆に、自由度の高かった1984年には. 334で首位打者を獲得。 87年の首位打者獲得時もチームは優勝している。 規定打席には9回到達しているが、腰痛持ちであり、夏場などにスタメンを外れていた。 最後に規定打席に到達した1989年には、梅雨時に10数試合スタメンを外れている。 82、84、85、86年は520打席以上をクリアしており(当時は130試合制)、チームの選手の中で最も多く打席に立っていた年もある。 1987年にのと同率で2度目の首位打者を獲った。 同率での首位打者はセ・リーグでは初の出来事であった。 両リーグを合わせてもののとのにつぐ2度目。 いずれも打率は. 333だった。 正田とは同じで、ベストナインが注目されたが、チーム順位・安打数・本塁打数が上回る篠塚が受賞した。 公式戦の通算打率は. 304を記録しており、オールスター戦での通算打率も. 327(55打数18安打)を残している。 日本シリーズでも1987年に打率. 409を記録するなどしているものの、シリーズ通算打率は. 292(106打数31安打)で、あと1本安打を放っていれば、公式戦、オールスター戦、日本シリーズ全てで通算打率3割を達成できていた(この記録を達成している選手は日本プロ野球では2012年時点の記録ではのみであった)。 1981年は、1973年の最後のV9以来、巨人が実に8年振りの日本一に輝く。 第5戦ではから駄目押しの3点本塁打を放ち、最終第6戦ではから2回に先制適時打、勝利打点を記録した。 、9月15日に後楽園球場で開催されたとの23回戦で無死一・二塁の場面で送りバントをした際、相手投手のが三塁へ悪送球し、外野へ転がったがそのボールをのがトンネルし、さらに大島が追いかけて捕ったボールがに中継され本塁へ投げたが、のが取り損ない、その間に打者走者の篠塚もホームインした(記録上は失策であったがランニングホームランのような出来事だった)。 このプレーは系番組『』で紹介され、同番組のVTRに篠塚本人は出ていないものの、補足トリビアで「あの守備はプロとして恥ずかしいプレー。 あってはならないことだと思う」とコメントしている。 1984年、. 334、12本塁打で王監督1年目のシーズンに自身初の首位打者に輝く。 二塁打35も最多だった。 順に(中日)、(広島)、(阪神)、(ヤクルト)、(大洋)とセリーグ6球団の強打者が並ぶ中での首位打者に輝いた。 この年、が初来日したが、3番篠塚、4番原、5番、6番クロマティ、7番中畑という打順が多く採用された。 10月18日のの30号が「2ストライク4ボールからのホームラン」だったが、の談話によると、を前にした消化試合で吉村の打席には誰も興味がなく、ベンチで異変に気づいた選手は篠塚ひとりだったという。 そのとの日本シリーズでは最後の打者となったが、この年を最後にでの試合開催が終了したため、後楽園球場にとっても最後の打者となった。 チームが西武に圧倒される中で22打数9安打3打点1本塁打と気を吐き、シリーズ敢闘賞を獲得している。 線審を廃し審判6人制から4人制になったの開幕戦、に1対3と負けていた8回裏、好投を続けていたからライトポール際への飛球を放ち、一塁審判が本塁打と判定した。 その年のバラエティ番組で上記の疑惑の本塁打についてコメントを求められ「あれはファウルでしたね」と発言している。 晩年のからまでは持病の腰痛の悪化などもあり、若手のが二塁を守る機会が多くなったことなどから300打席前後の出場となり、は出場機会の減少に対しての不満から「必要じゃなければトレードに出してほしい」と発言、球団から首脳陣批判の罰金処分を受けた。 第2次長嶋政権初年度で、のルーキーイヤーだったこともあり、石川にはたくさんのファンが訪れ、注目されていたが、2度タイムをかけて伊藤をじらせた上での狙い澄ました一撃で 、試合後には「狙い通りの球だった」と述べていてこの年松井秀喜を得票差で上回り新人王を獲得したルーキー伊藤はグラブを投げ、が立ちすくむ姿が印象に残されたサヨナラホームランとなった。 皇太子浩宮様・雅子様ご成婚の縁起の良い日であることもヒーローインタビューでは言及していた。 ただし、選手生活を通しては中距離打者として一貫し、通算本塁打率は日本プロ野球史上の通算打率上位30傑(4000打数以上、2019年現在14位)では最小の数字となっているが、80年代は中畑、原を凌ぎチームの二塁打数に関しては最多だった。 その他 [ ] プロ野球選手は一般的にいかつい体型でを着込むと近寄りがたい雰囲気を生むが、彼はらしからぬ細身の体型で、などと同時期の当時のプロ野球選手のファッションリーダーのひとりだった。 などを好んで着こなし、ガタイの良い選手たちとは異彩を放つスマートな風貌と、何より、プレーの華麗さで、女性人気は絶大だった。 肝が据わっていることでも有名で、前述の著書には他にも「球界きっての度胸よし」「藤田平と首位打者を争ってた時も、プレッシャーのかけらも見せなかったようだ」とも記述されている。 2004年・2005年と、2011年からはのを務めている。 高校時代はスラッガーだったが、肋膜炎を患ったことで巨人以外の球団に指名を回避され、さらに細身の体をカバーするためののバッティングを参考にし、その藤田とは首位打者を争った。 は篠塚からスライダーを教わったと語っている。 それまでストレート主体で一本調子で、王監督時代はや9連勝ストップなど勝負どころでよい結果が残せなかった槙原が、その後、完全試合を達成したり、西武を倒し日本シリーズMVPに輝くなど投球の幅を拡げるきっかけのひとつになったと言われている。 コーチとして [ ] 試合前の練習風景では、監督のや打撃コーチのが若手・中堅選手を担当しているのに対して、不調時のやなどの主軸打者と笑顔でトスバッティングの相手を務める様子が映っている。 また、シーズン前半に打撃不振に陥っていたは、7月末頃から好調になったことについて8月13日の対戦後ので問われた際に、「篠塚コーチとの打撃練習がいい形で実を結んでいる」と語った。 結果的に篠塚コーチ時代にはチーム打率は常にリーグ上位だった。 コーチ時代には、、、、、、らの選手が育っていったがいずれも打率が良く、スランプ時の指導などをしていた。 打撃理論・指導理論は、理想のフォームを綿密に固めたうえで、準備を整え、シンプルに「来た球を打つ」というスタイルである。 長嶋(第2次)時代には長らく内野守備コーチを担当していた。 原(第1次)時代は総合コーチを担当、原と共に攻撃面・作戦面を統括していた。 用具 [ ] 現在でも篠塚の使っていたバット、グラブなどを基本にして自分モデルとして使用しているプロ選手も少なくなく、元横浜のや元中日のら左のアベレージヒッターの多くは影響を受けたと語っている。 特には篠塚モデルのバットをほとんど修正することなく使っていることで有名である。 グラブは素手で掴むのに近いように小さめのものを愛用し、その感覚を大事にして手袋はせずに使用していた。 そのため汗で痛んでしまい数年ごとに替えていたという。 詳細情報 [ ] 年度別打撃成績 [ ] 18 26 24 2 5 0 0 0 5 0 0 0 0 0 2 0 0 4 0. 208. 269. 208. 478 3 7 7 0 2 0 0 0 2 2 0 0 0 0 0 0 0 2 0. 286. 286. 286. 571 76 97 90 11 25 2 2 0 31 10 1 0 1 0 6 0 0 14 7. 278. 323. 444. 767 115 351 315 38 82 13 3 6 119 31 6 3 11 2 22 0 1 31 9. 260. 309. 378. 687 116 457 412 51 147 21 2 7 193 45 2 5 14 1 29 6 1 39 9. 357. 400. 468. 868 124 523 467 64 147 26 6 7 206 67 5 0 11 7 35 3 3 32 10. 315. 361. 441. 802 115 473 424 79 130 21 2 13 194 56 10 2 6 4 38 1 1 42 8. 307. 362. 458. 819 126 524 461 75 154 35 2 12 229 66 7 2 9 1 51 2 2 49 7. 334. 402. 497. 899 122 538 466 57 143 21 1 8 190 54 6 2 26 1 42 1 3 45 6. 307. 367. 408. 775 128 529 485 64 141 25 3 8 196 43 3 2 17 4 23 2 0 54 8. 291. 320. 404. 724 115 454 429 69 143 25 3 7 195 49 4 1 7 3 14 0 1 52 8. 333. 353. 455. 808 116 456 414 37 131 18 1 6 169 58 2 2 8 3 29 3 2 31 12. 316. 362. 408. 770 119 494 461 59 134 28 4 4 182 38 5 4 9 2 20 3 2 38 9. 291. 322. 395. 716 71 253 232 31 66 11 1 5 94 29 1 0 4 1 15 1 1 27 5. 284. 329. 405. 734 97 328 289 31 77 9 2 3 99 23 1 1 3 3 32 3 1 49 4. 266. 338. 343. 681 67 257 241 22 64 10 0 0 74 21 2 1 1 1 14 3 0 35 4. 266. 305. 307. 612 66 226 208 27 70 8 0 4 90 23 0 0 2 1 13 0 2 21 4. 337. 379. 433. 812 57 161 147 22 35 5 0 2 46 13 0 0 3 1 9 2 1 15 5. 238. 285. 313. 598 通算:18年 1651 6154 5572 739 1696 278 32 92 2314 628 55 25 132 35 394 30 21 580 115. 304. 351. 415. 766• 各年度の 太字はリーグ最高 タイトル [ ]• :2回 (1984年、1987年) 表彰 [ ]• :5回 (1981年、1982年、1984年、1986年、1987年)• :4回 (1981年、1982年、1984年、1986年)• 敢闘賞:1回 ()• :1回 (1984年) 記録 [ ] 初記録• 初出場・初先発出場:1977年8月5日、対17回戦()、7番・として先発出場• 初安打:同上、5回表にから• 初打点:1978年10月4日、対25回戦()、6回裏にから• 初本塁打:1980年5月5日、対横浜大洋ホエールズ5回戦(後楽園球場)、9回裏にの代打で出場、からソロ 節目の記録• 出場:9回 (1982年 - 1989年、1991年) 背番号 [ ]• 37 (1976年 - 1978年)• 6 (1979年 - 1994年)• 81 (1995年 - 2003年、2006年 - 2010年) 登録名 [ ]• 篠塚 利夫 (しのづか としお、1976年 - 1992年6月30日)• 篠塚 和典 (しのづか かずのり、1992年7月1日 - ) 著書 [ ]• ミスターがくれた19年(1995年、ベースボールマガジン社)• プロが教えるバッティング入門(2002年、大泉書店)• 6歳からの広角打法(2007年、MCプレス)• 篠塚和典 流し打ちの極意(2013年、ベースボールマガジン社)• 篠塚和典が教える広角打法(2019年、日東書院本社) 脚注 [ ] [] 注釈 [ ].

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市立銚子高校出身のプロ野球選手一覧表

銚子利夫

来歴・人物 [編集 ] 野球を始めたのは実兄(市立銚子高-早大で野球部)の影響で、最初はだったが、2年時の秋にへ転向。 翌のには、エース兼4番打者として、チームを初めて出場に導いた(結果は初戦で敗退)。 高校3年時のでから投手として4位で指名されたものの、入団を固辞したうえでへ進学。 進学後にへ再び転向した。 3年時()には、の春季リーグ戦で首位打者のタイトルを獲得。 (秋季終了時点で)チーム史上唯一のリーグ戦全勝(10勝)優勝に貢献したほか、後に進出したでも優勝を経験した。 在学中には、リーグ戦で通算49試合に出場。 305(174打数53安打)、4本塁打、35打点という成績を残したほか、としてベストナインに3度選ばれた。 野球部での同期にや、1学年先輩にや 、2学年先輩にやなどがいる。 で、から1位指名を受けたことを機に入団。 応援歌は、ミュージカル『』の劇中歌「時間通りに教会へ」より採譜された。 にのレギュラーに定着すると、一軍公式戦で自己最多の125試合に出場するとともに、三塁手としての失策数をわずか3個にとどめた。 しかし、の三塁手部門には、の(126試合の出場で10失策)が選ばれた。 大洋ファンのは、当時この件を自身ので取り上げた。 もっとも、正三塁手として活躍したのは監督時代の1988~89年だけで、に監督が就任してが台頭してからは一軍公式戦での出場機会が減少。 にとの交換トレードで大学の先輩・監督率いるに移籍したものの、限りで現役を引退した。 同年には長内も引退したため、翌に、長内と再び入れ替わる格好で(この年にチーム名を横浜大洋ホエールズから改称)のコーチに就任。 横浜球団ではまで、二軍()のコーチ、編成担当、スカウトなどを務めた。 横浜ベイスターズを退団した当初は、店の開店を目指していた。 後に断念を余儀なくされたため、からは、「ブリッジ」(に本社を置く自動車輸入販売会社)で関東地区のエリアマネージャーを務めていた。 その一方で、からまでは、東京六大学で同期である監督(慶大出身)のを指導。 当初は外部スタッフ(守備・走塁アドバイザー)として携わっていたが、後にコーチへ正式に就任した。 その間には、1月20日付でから学生野球資格の回復を認定。 同協会へ加盟する高校・大学の硬式野球部でも指導できるようになった。 から、法政大学野球部の助監督に就任。 同部に所属するのは大学4年時()以来37年振りで、助監督への就任を機に野球部第二寮での生活を始めている。 詳細情報 [編集 ] 年度別打撃成績 [編集 ] 56 108 104 8 15 2 0 1 20 3 1 0 1 0 3 0 0 17 1. 144. 168. 192. 361 51 23 20 5 1 1 0 0 2 1 0 1 0 0 2 0 1 3 1. 050. 174. 100. 274 8 24 23 1 7 0 0 0 7 0 0 0 1 0 0 0 0 5 1. 304. 304. 304. 609 125 480 425 44 115 12 1 0 129 23 6 4 30 0 20 0 5 59 4. 271. 311. 304. 615 114 453 402 43 113 30 0 2 149 26 8 4 28 1 18 0 4 53 10. 281. 318. 371. 688 37 77 61 7 17 1 1 0 20 2 0 1 4 0 12 2 0 15 0. 279. 397. 328. 725 18 38 34 4 7 3 0 0 10 3 0 0 2 0 2 0 0 7 3. 206. 250. 294. 544 13 9 7 1 1 0 0 0 1 0 1 0 0 0 2 0 0 4 0. 143. 333. 143. 476 11 13 12 0 2 0 0 0 2 2 0 0 1 0 0 0 0 2 0. 167. 167. 167. 333 通算:9年 433 1225 1088 113 278 49 2 3 340 60 16 10 67 1 59 2 10 165 20. 256. 300. 313. 612 記録 [編集 ]• 初出場:1984年4月6日、対1回戦()、9回裏にの代打として出場• 初打席:同上、9回裏にの前に凡打• 初安打:1984年4月30日、対3回戦()、9回裏にから単打• 初先発出場:1984年8月28日、対21回戦()、8番・として先発出場• 初打点:1984年9月10日、対21回戦()、4回表にから適時打• 初本塁打:1984年9月24日、対ヤクルトスワローズ22回戦(横浜スタジアム)、2回裏にから左越ソロ 背番号 [編集 ]• 22 (1984年 - 1986年)• 9 (1987年 - 1993年)• 90 (1994年 - 2006年) 出典 [編集 ].

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銚子 利夫

銚子利夫

経歴 [ ] 2年生の時()、3年生エースを擁し、春()・夏()の甲子園大会に四番打者、として連続出場。 は準々決勝でに2-1で惜敗。 は全て圧勝で順調に勝ち進み、8月19日の決勝でを7-0で降し夏の甲子園同校初の優勝を飾る。 この大会から金属バットが初導入されたが篠塚は木のバットで打席に入り、2本塁打した。 準々決勝ではが5-4の延長15回の死闘で後のチームメイト、との対決が話題になったが、は銚子商の2年生4番サードの篠塚の攻守に渡る活躍に目を見張り、それが後のドラ1指名に繋がったと言われる。 銚子商の試合は前年の擁するとの雨天の延長12回サヨナラ四球ゲームが取り上げられる事が多く、全国制覇した1974年夏の大会は圧勝だったためか、あまりメディアには取り上げられていない。 翌年夏のは準決勝でのいたに1-2で敗退。 習志野高は夏の甲子園で優勝 し、2年連続で千葉県勢が優勝した。 甲子園優勝の後ににかかり3ヶ月間入院。 一時は野球生命まで危ぶまれたものの半年後に復帰した。 当時の監督だったに見込まれ、にて巨人から1位指名を受けて入団。 には一軍に定着、主に、として18試合に先発出場。 1979年オフにに参加した。 翌にはと二塁手の定位置を争い、6月にはレギュラーを奪取して二番打者に座る。 開幕当初は、藤田監督に代わりこの年のルーキーであったが二塁を守ったため出場機会が減少。 しかし5月には三塁手のが故障、原が三塁に回り、篠塚が二塁手のレギュラーに復帰。 以降は主に三番打者にすわり、内野陣が固定された。 同年は打率. 357(2位)を記録している。 通算打率も3割を超えている。 年間エラー数も僅か2回のみの年があるなど、守備機会の多い二遊間の選手としては驚異的であった。 1981年は(阪神)と争いし、わずか1厘差でタイトルを逃すものの自身の現役生活歴代で. 357という最高の打率を記録し、には自身初の首位打者を獲得。 にも(広島)と共に2度目の首位打者を獲得。 主力選手としてチームの6度のリーグ優勝、3度の日本一に貢献。 持病の腰痛もあり晩年は代打での起用が多くなり、に現役を引退。 藤田監督時代に三塁手、またデビュー当時は遊撃手としても出場した。 引退後は巨人の一軍打撃コーチ、一軍内野守備コーチ、一軍内野守備・走塁コーチ、一軍総合コーチを歴任。 からまでは、野球解説者、野球評論家を務めた。 に巨人の内野守備・走塁コーチに就任し、からまで打撃コーチを務めた。 また、イチローのセンター前ヒットで勝負を決した、の打撃コーチも兼任した。 からは再び日本テレビ、ラジオ日本野球解説者、日刊スポーツ野球評論家などを務めている。 2012年1月には韓国プロ野球・の臨時コーチを務めた。 主に1950年代に活躍した映画プロデューサーの(、、、らと親交があった)と女優のは夫人の父母で、俳優のは夫人のいとこにあたる。 長男の篠塚宜政はに在籍したのち、2012年春から社会人野球に所属。 2012年4月9日神宮でのHonda vs戦で、ルーキーとして2点リードの7回に代打で登場し、3球目の直球を右翼スタンドへ社会人初本塁打を放った。 同じく右投左打の二塁手。 人物 [ ] 現役選手として [ ] 巨人では主に3番打者や2番、6番打者、晩年は1番打者のを担った。 81年の. 357という高打率は巨人の日本人野手として73年の. 355 、61年の長嶋. 353 の記録を凌ぐ、高打率であった 51年の川上は91試合で. 377。 長打を狙うバッティングに瞬時に切り替えたり、広角に打球を操る器用な選手で、進塁打は打てたものの、バントなどを売り物にしてはいなかったため、制約のある2番バッターを任された1985年・1986年は打率. 307、. 291と成績を落としている。 85年に犠打26を記録しているが、チームは3位で貯金1であり、前年の首位打者にこれだけの送りバントをさせる采配がよいのか議論になった。 しかし、85年は阪神の優勝で沸いたため、大きな議論にはならなかった。 逆に、自由度の高かった1984年には. 334で首位打者を獲得。 87年の首位打者獲得時もチームは優勝している。 規定打席には9回到達しているが、腰痛持ちであり、夏場などにスタメンを外れていた。 最後に規定打席に到達した1989年には、梅雨時に10数試合スタメンを外れている。 82、84、85、86年は520打席以上をクリアしており(当時は130試合制)、チームの選手の中で最も多く打席に立っていた年もある。 1987年にのと同率で2度目の首位打者を獲った。 同率での首位打者はセ・リーグでは初の出来事であった。 両リーグを合わせてもののとのにつぐ2度目。 いずれも打率は. 333だった。 正田とは同じで、ベストナインが注目されたが、チーム順位・安打数・本塁打数が上回る篠塚が受賞した。 公式戦の通算打率は. 304を記録しており、オールスター戦での通算打率も. 327(55打数18安打)を残している。 日本シリーズでも1987年に打率. 409を記録するなどしているものの、シリーズ通算打率は. 292(106打数31安打)で、あと1本安打を放っていれば、公式戦、オールスター戦、日本シリーズ全てで通算打率3割を達成できていた(この記録を達成している選手は日本プロ野球では2012年時点の記録ではのみであった)。 1981年は、1973年の最後のV9以来、巨人が実に8年振りの日本一に輝く。 第5戦ではから駄目押しの3点本塁打を放ち、最終第6戦ではから2回に先制適時打、勝利打点を記録した。 、9月15日に後楽園球場で開催されたとの23回戦で無死一・二塁の場面で送りバントをした際、相手投手のが三塁へ悪送球し、外野へ転がったがそのボールをのがトンネルし、さらに大島が追いかけて捕ったボールがに中継され本塁へ投げたが、のが取り損ない、その間に打者走者の篠塚もホームインした(記録上は失策であったがランニングホームランのような出来事だった)。 このプレーは系番組『』で紹介され、同番組のVTRに篠塚本人は出ていないものの、補足トリビアで「あの守備はプロとして恥ずかしいプレー。 あってはならないことだと思う」とコメントしている。 1984年、. 334、12本塁打で王監督1年目のシーズンに自身初の首位打者に輝く。 二塁打35も最多だった。 順に(中日)、(広島)、(阪神)、(ヤクルト)、(大洋)とセリーグ6球団の強打者が並ぶ中での首位打者に輝いた。 この年、が初来日したが、3番篠塚、4番原、5番、6番クロマティ、7番中畑という打順が多く採用された。 10月18日のの30号が「2ストライク4ボールからのホームラン」だったが、の談話によると、を前にした消化試合で吉村の打席には誰も興味がなく、ベンチで異変に気づいた選手は篠塚ひとりだったという。 そのとの日本シリーズでは最後の打者となったが、この年を最後にでの試合開催が終了したため、後楽園球場にとっても最後の打者となった。 チームが西武に圧倒される中で22打数9安打3打点1本塁打と気を吐き、シリーズ敢闘賞を獲得している。 線審を廃し審判6人制から4人制になったの開幕戦、に1対3と負けていた8回裏、好投を続けていたからライトポール際への飛球を放ち、一塁審判が本塁打と判定した。 その年のバラエティ番組で上記の疑惑の本塁打についてコメントを求められ「あれはファウルでしたね」と発言している。 晩年のからまでは持病の腰痛の悪化などもあり、若手のが二塁を守る機会が多くなったことなどから300打席前後の出場となり、は出場機会の減少に対しての不満から「必要じゃなければトレードに出してほしい」と発言、球団から首脳陣批判の罰金処分を受けた。 第2次長嶋政権初年度で、のルーキーイヤーだったこともあり、石川にはたくさんのファンが訪れ、注目されていたが、2度タイムをかけて伊藤をじらせた上での狙い澄ました一撃で 、試合後には「狙い通りの球だった」と述べていてこの年松井秀喜を得票差で上回り新人王を獲得したルーキー伊藤はグラブを投げ、が立ちすくむ姿が印象に残されたサヨナラホームランとなった。 皇太子浩宮様・雅子様ご成婚の縁起の良い日であることもヒーローインタビューでは言及していた。 ただし、選手生活を通しては中距離打者として一貫し、通算本塁打率は日本プロ野球史上の通算打率上位30傑(4000打数以上、2019年現在14位)では最小の数字となっているが、80年代は中畑、原を凌ぎチームの二塁打数に関しては最多だった。 その他 [ ] プロ野球選手は一般的にいかつい体型でを着込むと近寄りがたい雰囲気を生むが、彼はらしからぬ細身の体型で、などと同時期の当時のプロ野球選手のファッションリーダーのひとりだった。 などを好んで着こなし、ガタイの良い選手たちとは異彩を放つスマートな風貌と、何より、プレーの華麗さで、女性人気は絶大だった。 肝が据わっていることでも有名で、前述の著書には他にも「球界きっての度胸よし」「藤田平と首位打者を争ってた時も、プレッシャーのかけらも見せなかったようだ」とも記述されている。 2004年・2005年と、2011年からはのを務めている。 高校時代はスラッガーだったが、肋膜炎を患ったことで巨人以外の球団に指名を回避され、さらに細身の体をカバーするためののバッティングを参考にし、その藤田とは首位打者を争った。 は篠塚からスライダーを教わったと語っている。 それまでストレート主体で一本調子で、王監督時代はや9連勝ストップなど勝負どころでよい結果が残せなかった槙原が、その後、完全試合を達成したり、西武を倒し日本シリーズMVPに輝くなど投球の幅を拡げるきっかけのひとつになったと言われている。 コーチとして [ ] 試合前の練習風景では、監督のや打撃コーチのが若手・中堅選手を担当しているのに対して、不調時のやなどの主軸打者と笑顔でトスバッティングの相手を務める様子が映っている。 また、シーズン前半に打撃不振に陥っていたは、7月末頃から好調になったことについて8月13日の対戦後ので問われた際に、「篠塚コーチとの打撃練習がいい形で実を結んでいる」と語った。 結果的に篠塚コーチ時代にはチーム打率は常にリーグ上位だった。 コーチ時代には、、、、、、らの選手が育っていったがいずれも打率が良く、スランプ時の指導などをしていた。 打撃理論・指導理論は、理想のフォームを綿密に固めたうえで、準備を整え、シンプルに「来た球を打つ」というスタイルである。 長嶋(第2次)時代には長らく内野守備コーチを担当していた。 原(第1次)時代は総合コーチを担当、原と共に攻撃面・作戦面を統括していた。 用具 [ ] 現在でも篠塚の使っていたバット、グラブなどを基本にして自分モデルとして使用しているプロ選手も少なくなく、元横浜のや元中日のら左のアベレージヒッターの多くは影響を受けたと語っている。 特には篠塚モデルのバットをほとんど修正することなく使っていることで有名である。 グラブは素手で掴むのに近いように小さめのものを愛用し、その感覚を大事にして手袋はせずに使用していた。 そのため汗で痛んでしまい数年ごとに替えていたという。 詳細情報 [ ] 年度別打撃成績 [ ] 18 26 24 2 5 0 0 0 5 0 0 0 0 0 2 0 0 4 0. 208. 269. 208. 478 3 7 7 0 2 0 0 0 2 2 0 0 0 0 0 0 0 2 0. 286. 286. 286. 571 76 97 90 11 25 2 2 0 31 10 1 0 1 0 6 0 0 14 7. 278. 323. 444. 767 115 351 315 38 82 13 3 6 119 31 6 3 11 2 22 0 1 31 9. 260. 309. 378. 687 116 457 412 51 147 21 2 7 193 45 2 5 14 1 29 6 1 39 9. 357. 400. 468. 868 124 523 467 64 147 26 6 7 206 67 5 0 11 7 35 3 3 32 10. 315. 361. 441. 802 115 473 424 79 130 21 2 13 194 56 10 2 6 4 38 1 1 42 8. 307. 362. 458. 819 126 524 461 75 154 35 2 12 229 66 7 2 9 1 51 2 2 49 7. 334. 402. 497. 899 122 538 466 57 143 21 1 8 190 54 6 2 26 1 42 1 3 45 6. 307. 367. 408. 775 128 529 485 64 141 25 3 8 196 43 3 2 17 4 23 2 0 54 8. 291. 320. 404. 724 115 454 429 69 143 25 3 7 195 49 4 1 7 3 14 0 1 52 8. 333. 353. 455. 808 116 456 414 37 131 18 1 6 169 58 2 2 8 3 29 3 2 31 12. 316. 362. 408. 770 119 494 461 59 134 28 4 4 182 38 5 4 9 2 20 3 2 38 9. 291. 322. 395. 716 71 253 232 31 66 11 1 5 94 29 1 0 4 1 15 1 1 27 5. 284. 329. 405. 734 97 328 289 31 77 9 2 3 99 23 1 1 3 3 32 3 1 49 4. 266. 338. 343. 681 67 257 241 22 64 10 0 0 74 21 2 1 1 1 14 3 0 35 4. 266. 305. 307. 612 66 226 208 27 70 8 0 4 90 23 0 0 2 1 13 0 2 21 4. 337. 379. 433. 812 57 161 147 22 35 5 0 2 46 13 0 0 3 1 9 2 1 15 5. 238. 285. 313. 598 通算:18年 1651 6154 5572 739 1696 278 32 92 2314 628 55 25 132 35 394 30 21 580 115. 304. 351. 415. 766• 各年度の 太字はリーグ最高 タイトル [ ]• :2回 (1984年、1987年) 表彰 [ ]• :5回 (1981年、1982年、1984年、1986年、1987年)• :4回 (1981年、1982年、1984年、1986年)• 敢闘賞:1回 ()• :1回 (1984年) 記録 [ ] 初記録• 初出場・初先発出場:1977年8月5日、対17回戦()、7番・として先発出場• 初安打:同上、5回表にから• 初打点:1978年10月4日、対25回戦()、6回裏にから• 初本塁打:1980年5月5日、対横浜大洋ホエールズ5回戦(後楽園球場)、9回裏にの代打で出場、からソロ 節目の記録• 出場:9回 (1982年 - 1989年、1991年) 背番号 [ ]• 37 (1976年 - 1978年)• 6 (1979年 - 1994年)• 81 (1995年 - 2003年、2006年 - 2010年) 登録名 [ ]• 篠塚 利夫 (しのづか としお、1976年 - 1992年6月30日)• 篠塚 和典 (しのづか かずのり、1992年7月1日 - ) 著書 [ ]• ミスターがくれた19年(1995年、ベースボールマガジン社)• プロが教えるバッティング入門(2002年、大泉書店)• 6歳からの広角打法(2007年、MCプレス)• 篠塚和典 流し打ちの極意(2013年、ベースボールマガジン社)• 篠塚和典が教える広角打法(2019年、日東書院本社) 脚注 [ ] [] 注釈 [ ].

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