もう一つの前身寺院である福寿寺は、皇后の政務機関である皇后宮職と関連の深い寺院であった。 そ れ は 東 大 寺 の『 華 厳 経 』 お よ び『 梵 網 経 』 に 説 く ミ ク ロ と マ ク ロ の 世 界 観 で あ る。
3 本稿註 1 の『東大寺法華堂の研究』一三六頁参照。
奈良時代。
そ れ ほ ど こ の 時 代 で は 異 色 の 存 在 な の で あ る。
乾漆梵天・帝釈天立像 国宝。 こ の 他 、 侍 者 、 化 仏 、 鹿 皮 の 問 題 も 無 視 で き な い が 、 こ れ ら に つ い て は 別 稿 を 期 し た い。 その放光線の描写は、 ま る で 宇 宙 空 間 を 支 配 し て い る か の よ う だ。
2: 十一面観音……あらゆる方角が見える観音菩薩• 高 雄 山 の 神 護 寺 に 現 存 す る 空 海 自 筆 の 国 宝『 灌 頂 暦 名 』 は 弘 仁 三 年 ( 八 一 二 ) 銘 で あ る か ら、 そ れ は 約 十 年 後 と い う こ と に な る。 弊社休日(土日祝日)にご注文の場合、次営業日までお待ちください。
つ ま り、 こ の 時 期、 国 内 は 疱 ほう 瘡 そう や 飢 き 饉 きん で 荒 れ て い た の で あ る。
こ の 時 代 に 三 月 堂 本 尊 も 唐 招 提 寺 の 毘 盧 舎 那 仏、 千 手 観 音 も 法 身 如 来 の 光 と し て と ら え て い る と こ ろ に 特 別 な パ タ ー ン 認 識 が あ る。
あ る い は 法 華 懺 せん 法 ぼう の 法 式 も 平 行 し て 行 わ れ た で あ ろ う。
皇后は朗弁 (宝亀四年 〈七七三〉 寂 ) を 高 見 と し て 実 に 力 強 い 不 空 羂 索 観 音 を 三 月 堂 内 に ま つ ら せ た。
19合 掌 し て 前 面 の 礼 拝 者 と 国 家 全 体 の 鎮 護 を祈るという様式の確立である。
ムカカゲ:の。
日本の場合、聖典(経典)のレベルで神々の戦いが説かれることはあまりありませんが、民間説話のようなかたちで、人々の暮らしの中に仏が登場して、活躍します。
ま ず、 イ ン ド 学 仏 教 学 の 分 野 で は、 や は り 基 本 と な る べ き 一 連 の ﹁ 不 空 絹 索 呪 経 ﹂ 群 に 対 す る 研 究 が 申 心 と な る。
た だ し 三 月 堂 本 尊 の 場 合 は、 真 言 宗 の 古 密 教 と 称 す る「 雑 密 」 の 延 長 線 上 に あ る と い う 位 置 づ け に な る。 ウィキメディア・コモンズには、 に関連するカテゴリがあります。 日本の観音や仏像と、戦争とのつながりは、インドとは少し異なります。
17フ と も 多 面 多 讐 像 に 数 多 く 見 ら れ る パ タ ー ン で あ っ て、 多 面 多 讐 の 不 動 A ocla の 場 合 も 同 様 で あ る。 すごいね。
この観音像の作例はインドで多く見出される。
い う ま で も な く 東 大 寺 に 具 現 さ れ た 大 仏 な ど造形は 『華厳経』 が前提にある。
三つ目:の。
種 智 院 大 学 教 授. つ ま り 三 月 堂 の 不 空 羂 索 観 音 の 存 在 は、 後 の 密 教 ( 空 海 な ど に よ る ) の 実 践 修 法 の さ き が け を 予 測 せ し め る の で あ る。
2奈 良 国 立 博 物 館 蔵「 笈 おい 」 ( 室 町 時 代、 十 六 世 紀 ) は、 岡 山 の 修 験 者 が 石 鎚 山 で 使 用 し た と さ れ る も の で あ る。 細 か い と こ ろ で は、 そ の 宝 冠 の 阿 弥 陀 仏 や 光 背 の 浮 彫 り の 後 方 か ら 発 せ ら れ る 光 条 す な わ ち 光 の 筋 が 光 背 に も (( ( あ る。
観音の図像と信仰 11月18日の授業への質問・感想 「不空羂索観音」と広辞苑で引くと、「大慈大悲の羂索を以て生死の苦海に浮沈する一切の衆生を済度することを本願とする変化観音」と載っていました。
三 本 論 に 入 る 前 に、 不 空 絹 索 観 音 に 対 す る 従 来 の 研 究 の 傾 向 と 成 果 を 簡 単 に 要 約 し て お き た い。
そ の 一 つ が 蓮 華 蔵 世 界 の 中 に ひ そ ん で い る 鎮 護 国 思 想 の 心 理 の 実 現 で あ る。
文化庁の調査官の奥健夫は、これら6つの台座痕跡の大きさが、法華堂の伝日光・月光菩薩像、および戒壇院の四天王像(計6体)の台座の寸法に近いことを指摘し、 1 当初法華堂には不空羂索観音とは別の本尊が安置されており、 2 後に不空羂索観音像と二重壇が運び込まれ、壇の下段に伝日光・月光菩薩像と戒壇院四天王像の計6体を安置した、と推定した。
2また、『東大寺要録』所収の「桜会縁起」(さくらええんぎ)という記録に、「不空羂索観音像の安置場所はなかなか決まらなかった」という記載がある。
し た が っ て 三 月 堂 本 尊 は 国 家 鎮 護 を 祈 る い っ ぽ う で 大 仏 の 総 国 分 寺 と し て 政 治 支配を支えつつ、その要となっていたと考えられる。
仏の右辺に於いて、観世音自在菩薩あり。
今は剥製でしているらしい 鹿を食べていいという「鹿食免」という免許も出していた。
( 七) 『 華 厳 経 』 の 教 義「 如 意 宝 珠 品 」 は、 三 月 堂 本 尊 の 合 掌 手 と 宝 珠 ( 水 晶 玉 ) に 集 約 さ れ る。 ヒノキ材の寄木造で玉眼を嵌入する。
1と い う こ と は、 空 海 が 見 た 三 月 堂 の 本 尊 不 空 羂 索 観 音 の 水 晶 玉 か ら 発 せ ら れ る 光 は、 ま ぎ れ も な く「 光 明 真 言 」 に 通 じ る「 光 明 そ の も の 」 で あ る と い う 解 釈 が 成 り 立 つ。 上段の8個の丸孔については、ここに8本の柱を立て、屋根を架け、柱間を吹き放しとした「宝殿」が設置されていたと推定されている。
2 宝 珠( 水 晶 玉 ) を 表 現 す る 例 は、 『 神 変 真 言 経 』 第 一 六( 大 正 蔵第二〇巻、三一二頁)に記述がある。
一 方 、 わ が 国 で は 、 高 田 修 博 士 、 清 18 水 乞 氏 な ど の 先 学 が 、 イ ン ド 現 存 の 石 像 彫 刻 に 対 し て 不 空 羅 索 観 音 の 名 前 を あ て て い る。
と く に そ の 十 年 前 の 天 平 八 年 ( 七 五 六 ) 頃 か ら の 数 年 で あ る が、 十 一 年 五 月 疹 疾 平 瘉 の 祈 願 を 念 頭 に お い た 修 法 が 行 わ れ た。
明王がもつ白いニョロニョロも意味あいは羂索と同じ。 ましてや十一面観音は私にしてみれば。
境内 [ ]• 「 仏 頂 尊 勝 陀 羅 尼 」 の 書 写 な ど は そ の よ い 例 で あ る。
d、 日 本 の 図 像 資 料 図 1 ﹃ 現 図 胎 蔵 マ ン ダ ラ ﹄ 図 2 ﹃ 図 像 抄 ﹄ 巻 六 恵 什 撰 図 3 ﹃ 別 尊 雑 記 ﹄ 巻 二 十 三 心 覚 撰 図 4 ﹃ 覚 禅 紗 ﹄ 巻 五 十 ・ 五 十 一 覚 禅 撰 e、 チ ベ ッ ト ・ ネ パ ー ル 系 の 図 像 資 料 図 5 ﹃ 三 百 尊 図 像 集 ﹄ sku brnan sum brgya 図 6 ﹃ 五 百 尊 図 像 集 ﹄ sKu brnan lna brgya 15 図 7 ﹃ 百 八 観 音 図 像 集 ﹄ 16 図 8 敦 煙 壁 画 番 号 は 松 本 栄 一 氏 の 付 図 番 号 五 以 上 の 諸 資 料 を 用 い て、 不 空 羅 索 観 音 の 図 像 表 現 の 多 様 性 と、 そ こ に 認 め ら れ る 一 種 の 法 則 性 を 考 察 し て み た い。
ま た、 も う 一 方 の 世 界 観 は 蓮 華 蔵 世 界 で あ る が、 そ の 表 現 の 一 部 が 台 座 の 蓮 弁 の 毛 彫 り に 見 ら れ る。
民 衆 に 対 す る 救 い の 根 本 は こ こ に 要 因 が あ る。