月旅行を企てる純朴な成金や有名芸能人との浮名。 それは諸力を合理的に用いるよう命じ、そうすることで権力の絶え間ない増大を計ったのである。 アメリカ合衆国とソヴィエト連邦の敵対関係は、原理的には結局のところ、最も豊かな国と最も貧しい国との敵対関係である。
10翻訳 [ ] 訳:『穿裤子的猴子 人类行为新析』 (北京:工人出版社、1988年) 関連項目 [ ]• イエスはともかくも、彼の信者は賭けから身を引く。
蕩尽でパチンコに余剰(お金)を費やすサルは、 負けてはいない。
至高性とは、一種の戯れであり、賭けである(『至高性』)。
関連項目 [ ] ウィキメディア・コモンズには、 に関連するカテゴリがあります。
《非-知》は、日常の平穏な秩序を破壊するゆらぎであるが、《知》の発展にはゆらぎが必要である。 政治や軍事ではなくて文化を重視したことも、ニーチェとナチズムの大きな違いである。 日本の家族は、母親の欲望を軸にして動いている。
7これは「稀少性」を前提とする通常の経済学とはまったく逆の考え方です。
バタイユが文学から経済学に至るまでの様々なジャンルの著作の中で取り上げる非日常的な内的体験、例えば気違いじみた笑い、涙と嗚咽、エロティシズムと性的恍惚、断末魔の苦しみ、自然美に対する詩的感動、禅の悟りなどは、あらかじめ目的を設定して、それに向かって努力することによって獲得される体験ではなくて、突然思いがけずに、規則性を破って現れる。
しかし子供は幸運への意志ではないであろうか 」。
役に立つことは、目的に対する手段の有用性であるから、全く何の役にも立たないことこそが人間にとって究極目的であるということになる。
まるでサドの世界がバタイユへの道ならしであったかのように。 我々は《今・ここ》の有限性を超越した目的を持たなければならないが、有限な意識が設定した目的をも超越しなければならない。
つらつら眺めているうちに、通販と近所のスーパーの広告を除くと、残りの広告は三つのカテゴリーに分類されることが分かった。
『宗教の理論』(推定48年頃に書かれた。
自然的存在としての人間は、自らを存続せしめるために、生産しなければならないし、蓄蔵しなければならない。
労働者が奮発してワイン代を支払い、美味なるワインを飲むとき、そこには「ある種の味わいという要素、ある奇跡的な要素が混入することになる」、そしてそのような奇跡的要素こそが至高性の基底を成しているのだ、とは書く。
喫煙する多くの人が、そのことをいかに認識していないかは、驚くほどだ。 49年に刊行)• 酒井健『バタイユと芸術 アルテラシオンの思想』青土社、2019年 時間論• したがって、欲望は自らの存在を否定するために存在している。 。
なぜならば、バタイユにとって共産主義社会とは、資本主義社会とは別の手段を以って成し遂げられた産業社会であるからである。 呪われた部分としての至高者 フロイトの術語をバタイユの言葉に翻訳すると、現実原則は禁欲と労働による富の蓄積を命じるのに対して、《快楽原則=涅槃原理》は、その富の蕩尽を命じる。
『無神学大全』が「体験」を内在的に語るのに対して、ここでは外在的に、ときには歴史的に「体験」を探求している。
1962年、病状が急速に悪化し、永眠。
ちくま学芸文庫、訳『呪われた部分 有用性の限界』は「呪われた部分」をつくるための草稿群である。
フロムによれば、ナチズム以前に、宗教改革に既に自由からの逃走を見て取ることができる。 だって、よい学校に入るための努力、家を建てるための努力と比較したとき、エステ・サロンに行って、サウナに入って、ダイエットして、無駄毛を抜くという営みに要する努力はあまりにも軽微なものに思えるからである。 『(Sur Nietzsche ニーチェを越えて)』の中で、バタイユは《幸運の存在論》とでもいうべき哲学的な議論を展開しているので、長くなるが引用しよう。
「壁の背後でこっそりと隠れて催される祭は、富の輝きを横領する」。
Social Structure and Personality. 「ぼくはどんな苦労も厭わない。
その言葉は、若かりし頃に流行に感化されて読んだことがある一冊の本に記されていたものだ。
「捨てる」のほうは再発行されなかった。
供犠は、生贄の人間(あるいは動植物)を、そしてさらに供犠執行者をも、有用性の原則が支配する《俗》の世界から引き離し、《聖》の世界へと高める。 有力者は祝祭で財を浪費するために、富を蓄積しておかねばならなかった。 が、到底、バタイユの世界に触れているとは自分でも思えなかったので、ただただ創作になるしかなかったのだけれど。
20もしこれらの両極を相互に関係付け、一方を他方に還元することができたなら! 」と書いているが、三年後の論文『』の中では、この二元論を崩してバタイユに近い主張をしている。
しかし抑圧に対する反逆という獅子の段階は未だ否定的で、肯定的ではない。
愛(親和)と憎(攻撃)の両極性がそれである。
が、バタイユが「使い果たす」のは、生物が存在を手にした段階から常に既に太陽から贈与された生命エネルギー。