日頃から「人間は10日も食べないと自然に死ぬそうだよ」と周囲に語っていて、食事が喉を通らなくなった際には流動食を勧めたが食べなかったといいます。 第1シリーズ(1964年) - せつ子• この劇団は活動していくにあたり、 プロレタリア演劇運動 (所謂、左翼的活動)に偏っていった。
18『』では不良の息子に手を焼く母親を好演し、『』などの演技と共に女優助演賞を受賞している。 京都市生まれ。
続大番 風雲篇(1957年)• 弟の徳之助 加藤大介 が7代目澤村宗十郎に入門して初舞台を踏んでおり、貞子さんは小学2年生の頃から弟の付き人として宮戸座に通っています。
第71回「倖せの鐘」(1963年)• 沢村貞子著『貝のうた』留置所というところ より 「料理には愛情が第一」とつくづく知ったのは、刑務所暮らしのせいである 貞子さんは、23歳の時の刑務所暮らしで、料理の尊さを知りました。
朝霧(1963年)• (大正4年)、浅草尋常小学校に入学。
(1952年、東宝) - 千里社長夫人• 同年秋、左翼劇場書記長をしていた俳優の今村重雄と結婚。
8貞子さんは、最初の逮捕で、検事や特高から《転向と離婚》を迫られます。
「おていちゃん」は、マスターテープが10回分あまりしか残っていないそうで、それも叶いません。
NHKの番組「365日の献立日記」を書籍化した一冊、新刊です。
あこがれ(1966年、東宝) - 伯母ハル• (1987年、CX) - 佐竹艶子(特別出演)• いかに手早く、しかも楽しく家事をするか。
兄はのちの四代目澤村國太郎、弟は加東大介である。
二十歳のとき、築地小劇場の女優、山本安英に「新劇の道を目指したい」と手紙を送って女優への第一歩を踏みだす。
沢村さんの本には、ときどき作り方の詳細が載っていることもありますが、ほとんどが献立の箇条書きのみです。
着るものはこざっぱりしていれば、それで満足。
(昭和52年)に発表した自伝的随筆『私の浅草』は、下町の風情を生き生きと綴りあげた名著と評価が高く、第25回を受賞した。
(昭和17年)に東宝を退社して夫の藤原と実演に転じ、(昭和20年)には國太郎が結成した新伎座に加入して終戦直後まで舞台活動を続ける。 『』、『』『』、『』など数多くの名作に出演する一方、『』や『』などの喜劇映画ではコメディリリーフとして芸達者ぶりを見せている。
(1966年) - 常子• (1949年、松竹) - ヒゲ又の妻・お文• べらんめえ芸者と大阪娘(1962年、東映) - おたけ• 第337回「日蔭の家」(1963年)• 結果、スライスチーズと、ハード系のチーズの中間ぐらいのチーズを拍子木切りに。
(1961年、松川事件劇映画製作委員会) - 斎藤の母スミ• そこが私は好きだった。
・風の昭和日記(1985年) - ウメ• (1954年、東宝) - 風間の叔母• そうではなく、最期の時は若い頃には駆け落ちまでして、 供に寄り添った夫と供に人生を終わらせたいという気持ちを 貫徹した沢村貞子の気持ちは非常にカッコいいと感じる。
金色夜叉(1962年)• (1980年、NET) - 上杉万里子• 離婚の原因は新聞記者で後に出版社を経営する大橋恭彦さんとの関係… 大橋さんには妻もいて駆け落ち同然で同棲生活を始めました。 ビフテキも冷たい皿にもるようなことはしない。
その自由な発想は、毎日料理をされていたから出てくるものだと思いますし、26年間も記し続けていたことがすごいですよね。
京都の新聞記者と恋に落ちるのは30代の末。
(CX)• 基本は一日二食、朝は野菜サラダ、夜は味噌汁を欠かさなかった。
出発進行(1969年、松竹) - 出口うめ• その前年に女優を引退し、夫の大橋恭彦とともに長年住み慣れた東京・代々木上原の家を引き払い、神奈川・湘南に住まいを移す。 つまり、「無謬(むびゅう)の老人」もないかわりに「老醜の人」もありえないのである。
15(1937年、日活) - 大泉の女房• (1958年、東宝) - おりんの母• 1997年:第20回 会長特別賞(没後追贈) 出演作品 [ ] 映画 [ ]• 築地署に留置されたのち市ヶ谷刑務所へ戻され、12月の公判で転向を声明して、懲役3年、執行猶予5年の判決を受けて釈放される。
(1956年、大映) - 田谷辰子• 沢村さんが主に漬物を召し上がるのは、お茶漬けのとき。
(1973年、松竹) - 清野たま テレビドラマ [ ]• 不倫の果ての事実婚生活を選んだ大橋だったが、離婚がなかなか認められず、正式に貞子と再婚したのは1968年だった。
大橋には妻子があったため、内縁関係になる。
右門捕物帖 伊豆の旅日記(1950年、) - お花• 普通は食事のときにおかずと並べますが、沢村さんはごはんの最後にお茶漬けを食べる直前にぬか床から漬物を取り出すとのこと。 『精選女性随筆集12 沢村貞子』 、2012年 関連文献 [ ]• (1949年、大映) - 和泉屋おかぢ• 当時、築地小劇場は分裂し、中心メンバーの、らによってが創立。 26歳の時だった。
14第1346回「波紋」(1982年)• たけのこは、収録をした次の日にお店で見かけ、買ってしまいました。
26年半、365日の献立日記は、そういう経験から生まれたものかも知れません。
顔のない女(1959年) - 香村の妻• 全て自然に還っていく、その最期の時も・・・ そんな考え方は非常に美しいし、理解は得難いのかも知れないが、 一番、まともな考え方に思える。
ちょうど兄は女形として人気がでて映画界へ引き抜かれ、弟も真剣に役者に取り組みはじめた時期だったから、一家の熱気は女優志願の追い風となったに違いない。
その後、貞子は保釈取り消しの手続きの隙をついて逃亡し、 地下活動をしようとするが、一週間後に再逮捕されてしまった。 非行少女(1963年、日活)• 瞼の母(1962年、東映) - おとら• 「いいこと。
貞子さんは、自伝でも書いていらっしゃるように、決して巧い役者ではありませんでした。 生涯に350本以上の映画に出演し、幅広い役柄と個性的な演技で名脇役女優として活躍した。
そんな楽しみ方ができる一冊です。
最後に、飯島さんからメッセージをお願いします。
一度、テレビで対談したとき、「嘘よ、そんなの。