そのきっかけというのが、はるばる九州からこの聖域にやってきた「親子の夢」です。 シッカリとお別れができなかった無念が、もしかすると残っていたのかな~と、思ってしまいました。
16面倒になればなるほど美的に見ている 訳 ( わけ )に行かなくなる。 それどころか、山を越えて落ちつく先の、 今宵 ( こよい )の宿は 那古井 ( なこい )の 温泉場 ( おんせんば )だ。
面白いことに聖綾さんは、冥界と人間世界は対応しているだけでなく、人間世界にあるものは冥界にもあると言います。
次には落ちる雲雀と、 上 ( あが )る 雲雀 ( ひばり )が十文字にすれ違うのかと思った。
「夢枕に立つ」は神様やご先祖様が夢の中、あるいは夢を見ている人の枕もとに現れるという意味で、そんな神様やご先祖様の用向きは、多くの場合重要事項の伝達であったり、夢を見ている人にオ進路や家の庭に埋まっている宝物のある場所を教えてくれたりするようだ。
「夜の狼」だと自称してますので、遠吠えさせながら、モリモリ突撃してしまうのが人情ってもんですよね!! そんな人情は要らない!と、ツッコミが多数入っておりますが、これを感じられるのも「第六感」の能力だと信じております(?) そんな第六感と虫の知らせですが、親が亡くなる前日に、なんとも不思議な体験をしました。 独 ( ひとり ) 坐幽篁裏 ( ゆうこうのうちにざし )、 弾琴 ( きんをだんじて ) 復長嘯 ( またちょうしょうす )、 深林 ( しんりん ) 人不知 ( ひとしらず )、 明月来 ( めいげつきたりて ) 相照 ( あいてらす )。
苦しんだり、怒ったり、騒いだり、泣いたりする。 そこに実母の妹(戸籍上は私の姉になります)以来姉と呼んでます。
谷を 見下 ( みおろ )したが、どこで鳴いてるか影も形も見えぬ。
もともとは、ご神体「花の窟」の一部だったものですが、ある話をきっかけに、初代宮司さんが手水舎のそばまで運んできたそうです。
既に死んでしまっている人というのも、ご先祖さまや生前に関わりがあった人、信仰している神様など様々です。
自分のどこかで、寂しいと感じていたり 会いたいと感じていたり、そういう感情が強ければ 夢に出て来る可能性は高まる傾向にありますが、 それ以上の意味合いはありません。 関西のローカル番組で多数のレギュラーを抱えるお笑い芸人、たむらけんじさんもその一人。
14お正月、知らずに煙草やトイレの夢を方には、思いがけない幸運が訪れるかもしれません。
菜の花を見ても、ただうれしくて胸が 躍 ( おど )るばかりだ。
何か予知するようなことを言われた場合でも それが本当に起きる可能性は低く、 あくまでも、夢は夢ですから 過剰に反応するようなことがないように、 注意しましょう。
「また誰ぞ来ました」と婆さんが 半 ( なか )ば 独 ( ひと )り 言 ( ごと )のように云う。
百万本の 檜 ( ひのき )に取り囲まれて、海面を抜く何百尺かの空気を 呑 ( の )んだり吐いたりしても、人の 臭 ( にお )いはなかなか取れない。 ここに詩人という天職が出来て、ここに画家という使命が 降 ( くだ )る。
そらそうですね。
しかし、一つ条件があります。
いくら雲雀と菜の花が気に入ったって、山のなかへ野宿するほど非人情が 募 ( つの )ってはおらん。
夢の中だけでも会えたことを懐かしむ (会いたくない人だと話は別ですが…汗)など、 前向きに考えるようにして、 あまり不安に感じるような必要は、ありません。
こんな所でも人間に 逢 ( あ )う。
西洋の詩は無論の事、支那の詩にも、よく 万斛 ( ばんこく )の 愁 ( うれい )などと云う字がある。
画中の人間が動くと見れば 差 ( さ )し 支 ( つかえ )ない。
「前をみては、 後 ( しり )えを見ては、 物欲 ( ものほ )しと、あこがるるかなわれ。
もしかすると、私の妄想力は「第六感」になるかな~とも思っております(笑) 分かりませんが、このドケチな性格も「第六感」なのかも知れません。
三者の地位に立てばこそ芝居は 観 ( み )て面白い。
霊格の高い宮司さんやお坊さんが神託を受けて寺社を構えるのは「定番」ともいえるエピソードですが、親子同時というのは不思議と言わざるを得ません 何より、地元の方々が口をそろえる「ご利益」こそが、この話の信憑性を確かなものにしているように思います。