アウステ ル リッツ の 戦い。 ニヴフとは

「戦争と平和」の1805年のアウステルリッツ会戦で思い出したこと

アウステ ル リッツ の 戦い

ドイツとスイスでのによる新教派()ととの対立のなか展開された最後で最大のといわれる。 当初は神聖ローマ帝国内で局所的に起きた小国家同士のプロテスタントとカトリックの戦争が神聖ローマ帝国国外以外にも波及。 当時のヨーロッパでは大国として大きな影響力を持っていたデンマーク、スウェーデン、フランス、スペインなどヨーロッパ中を巻き込む国際戦争へと発展した。 三十年戦争 戦争:三十年戦争 年月日:1618年—1648年 場所:ヨーロッパ(主に、現在のドイツ) 結果:新教徒勢力の勝利• の成立• の縮減• の興隆• の興隆• の衰退• の求心力の喪失• の勢力と影響力の実質的な低下 交戦勢力 新教徒勢力 1630— 1635— 1625—1629 1618-1620 -1623 1625-30 反ハプスブルク家勢力 () ローマ・カトリック勢力• 1620- () 1643—1645 指導者・指揮官 () () () () () () () () () () () () () () () () 戦力 661,000人 :• 150,000人 スウェーデン• 75,000人 ネーデルラント• 約: 100—150,000人 ドイツ• 150,000人 フランス• 30-40,000人 ボヘミア• 20—30,000人 ハンガリー 反ハプスブルク家勢力• 6,000人 トランシルバニア 450,000 人:• 300,000人 スペイン 及びイタリアからの兵を含む• 100—200,000人 ドイツ• 約: 20,000人 ハンガリー及びクロアチアの騎士 損害 背景 シュマルカルデン戦争とアウクスブルクの和議 が始まってからはとカトリックの対立が続き、教皇は改革に対抗して、を設置し、16世紀末までにはバイエルン、オーストリア、フランス、ポーランド、チェコがカトリックの勢力圏に入った。 にはとルター派諸侯のとの間でが勃発した。 皇帝側が新教諸侯に勝利しカトリックに有利なが定められたが、寝返ったとのを経て、のが公布された。 この令では、カトリックとルター派は信仰を理由とした暴力の禁止(やツヴィングリ派はとされ除外 、諸侯の信仰は自由であり、自領の信仰(ルター派かカトリック教会)を選ぶことができ、そして領民にはその信仰に従わせるとされた 領邦教会。 アウクスブルクの和議は教皇はあまり関わらず皇帝と諸侯の間で交わされたもので、その後も新旧両派は自らの勢力拡大に努めた。 周辺諸国の情勢 神聖ローマ帝国に隣接する諸国のうち、は帝国の西部国境にを領しており、イタリア内の諸邦からネーデルラントに至るスペイン回廊 を通じてつながっていることから、ドイツ諸邦に関心を持っていた。 1560年代にはネーデルラント人による反乱が頻発しており、反乱の過程で親スペインの(後の・)と反スペインの(後の)に分割、これがの和平協定まで続くとなる。 また、16世紀中葉から17世紀中葉までは、南はルーション、東南ではジェノバとミラノ、東ではフランシュ・コンテとネーデルラントと、スペインと神聖ローマ帝国の2つのハプスブルク家に囲まれており、これはハプスブルク家による意図的な包囲政策の結果であった。 フランスはこの打破をめざしていた。 フランス王家の関心は宗教のそれを上回り、結果としてカトリックのフランスがプロテスタント側で参戦することになる。 アンリ4世は1609年に包囲打破に取り組み、その後 首席大臣 が、そして枢機卿が受け継いだ。 にとって三十年戦争は 1568-1648 の一部を成す。 オランダは海運、貿易、植民すべてにわたってスペインを凌駕し、オランダは反ハプスブルクの中心となった。 1625年のデンマークとのハーグ条約は、デンマークの支柱となり、またフランスをオランダは外交と援助金によって支援し、スウェーデン軍の勝利をもたらした。 とはの制海権を巡って対立しており、デンマークの東部バルト海域の基地はスウェーデンに奪われるなどしていた。 デンマークが没落するのに対してスウェーデンは勃興し、スウェーデン王はバルト海周辺の領域の環をつなぐ計画をもっていたところ、皇帝軍の挑戦によってドイツ問題に参戦せざるを得なくなった。 また、「」も参戦する動機の一つとなった。 神聖ローマ帝国は各々に割拠する独立性の高い諸邦の集まりであったが、帝位を持つハプスブルク家自身は帝国の大きな部分(、そして)を直接支配していた。 オーストリアは800万人を統治する列強国であった。 帝国はまた、ザクセン、ブランデンブルク、プファルツ、、、(各々の人口は50万人から100万人)といった地域勢力を含んでいた。 その他にも公領、、修道院、司教領主そして小領主(中には領地が1村だけのものもある)といった膨大な数の諸邦があった。 オーストリアとバイエルンを除いて、これらの諸邦には国家レベルの政治に関与する能力はなく、子孫への分割相続によって生じた一族関係による同盟が普通である。 ケルン戦争 アウクスブルクの和議は幾人かの改宗司教が彼らのを放棄することを拒み、加えてスペインと神聖ローマ帝国におけるハプスブルク家及び他のカトリック君主達がこの地域にカトリックを復活させようと図ったために崩れ始めた。 1570年代初めになるとカトリック側がを支柱とした宗教改革への本格的な反撃を開始し、新旧教対立は深刻化した。 バイエルンではアルブレヒト5世によって新教派は潰滅し、1574年にはマインツ大司教も反宗教改革に乗り出した。 イエズス会は大学教授に就職して教会再建のために後進を育成し、また帝国の司法もカトリックに支配された。 1577年、領主の ()がカルヴァン派に改宗してと結婚すると言い出した。 教皇はアウクスブルク宗教平和令の聖職者にかんする留保への侵犯であるとしてゲプハルトを罷免し、後任にバイエルン公子 (、)(バイエルン公の弟)がすえられた ()。 このときプロテスタント諸侯は傍観していたが、反宗教改革が聖俗諸領邦へと押し寄せたことによって宗教対立が高まっていった。 はドイツとボヘミアのカトリックのために両形色の聖体拝領を認めるためのを開催させた。 ルター派は()、ナッサウ()、()、そしてブランデンブルク()といった諸侯のカルヴァン派への離脱をも目にさせられた。 このため、17世紀初めにはと南方はカトリックになり、ルター派は北部において優勢で、カルヴァン派は中西部、スイス、ネーデルラントなど他の地域で優勢となった。 しかし、いずれの地域にも少数派はおり、幾つかの領地や都市ではカルヴァン派、カトリックそしてルター派はほぼ均衡していた。 一方、ルター派のスウェーデンとデンマークは帝国内のプロテスタントを援助して政治的経済的影響力を得ようと考えていた。 ユーリヒ=クレーフェ=ベルク連合公国の継承戦争とプロテスタント同盟・カトリック連盟の結成。 ユーリヒ、クレーフェ、ベルクの、マルク伯領、ラーフェンスベルク伯領 〜、が、ルター派の帝国都市をカトリックに改宗させてした。 の帝国議会は両派が激突し、5月にはルター派諸侯は を盟主に仰ぎ、 を結成した。 新教同盟にはが協力し 、フランスとの交渉を開始した。 ヨハン・ウィルヘルムが3月25日に死去すると、継承問題が持ち上がった。 、、、を連合させた領邦国家であるは、やだけでなく周辺の大国の欲望を喚起させて介入されることとなった。 プロテスタント同盟に対抗してカトリック側はにバイエルン選帝侯マクシミリアン1世を盟主とする を結成し、の支持をあてにしていた。 フランス、オランダ、イギリスはこれに反対した。 は新教に改宗し、プロテスタント同盟に加盟、はローマ教会に入ってカトリック連盟に加盟した。 さらにフランスがプロテスタント同盟に、皇帝がカトリック連盟の陣営についた。 スペイン、オーストリア、オランダは繰り返しに侵入したが、フランスのが暗殺され、大きな戦争とはならなかった。 (冬王) 、弾圧に反発した急進派の貴族が皇帝代官マルティニツとスラヴァタをの窓から突き落とすという事件が起きた。 これが三十年戦争の始まりである。 ボヘミア王フェルディナントはまだ皇帝ではなかったが事実上のハプスブルク家全世襲領の所有者であったため、ボヘミア鎮圧を決定したが、資金が不足していた。 翌年3月にマティアスは死亡し、8月にフランクフルトでフェルディナントは「」として皇帝となった。 しかし、ボヘミアの等族は新皇帝を認めず、1619年8月、新教同盟のを新国王にした。 フリードリヒ5世はイングランド王の娘と結婚していたため、ボヘミア等族はイングランドからの支援を期待していたが、イングランド内戦直前によって期待は裏切られた。 一方、フェルディナント2世はスペイン・ハプスブルク家やバイエルン公マクシミリアン1世などのリーガ諸侯との同盟の結成に成功し、プロテスタントながらフリードリヒ5世と反目していたザクセン選帝侯さえも味方につけ、を司令官とする軍を派遣した。 これに対するボヘミア諸侯は新教同盟ウニオンから援軍を得られなかった。 ティリー率いるカトリック連盟軍はオーストリア軍を破り 、ので反乱軍は大敗した。 一方、スペインはオランダを再征服するためにライン川沿いの陸路を確保しようとしており、が率いるスペイン軍は9月にプファルツを占領した。 戦況の悪化により1621年5月にはプロテスタント同盟が解消した。 カトリック連盟軍は秋にオーバープファルツを占領し、1622年にスペインと合流 、ティリーは、も一蹴した。 1622年10月25日にグラーツが攻略され、ボヘミア王の領域は完全に鎮圧された。 スペインと旧教連盟によって鎮圧されたボヘミアの反乱勢力は処刑され、以後ボヘミアはカトリック化政策が断行された。 これ以後、ハプスブルク家のボヘミア支配は強固なものとなった。 1627年の新領法条例によってボヘミアはハプスブルク家の属領となった。 これにより、多くのボヘミア貴族やプロテスタントがヨーロッパ各地に亡命した。 フリードリヒ5世は領土を失ったためオランダへ亡命し 、バイエルン公マクシミリアン1世は位を獲得した。 スペインは対オランダ戦争に向けての重要なルート(スペイン街道)を確保した。 バイエルン公の位獲得はに反するものであったため、諸侯の怒りを買った。 プファルツ侵攻後もティリーはハルバーシュタット司教領に攻撃をかけ、ドイツ北部にも戦線が拡大した。 カトリック連盟とハプスブルク家によるプファルツ侵攻に脅威を感じたフランスのは、オランダ、、スウェーデン、デンマークと「」を結成し、カトリック連合を牽制した。 またフランス、、がスペインのハプスブルク家への支援ルートを阻んでいた。 グラウビュンデン戦争:1620-1639 一方、ミラノからアルプス、チロルへ抜けるは、オーストリアとスペイン領イタリアを結ぶ最短陸路であったため、ハプスブルク家は支配を望んでいた。 バルテリナはと結ばれたゆるやかな諸州同盟に従属していた。 フランスとヴェネツィアはハプスブルク家に対抗し、ゲオルク・イェーナッチュを中心に派閥争いが起こったところ、1620年、スペインがバルテリナを占領した。 その後1624年フランスが占領したが、1626年のモンゾン条約でスペインとフランスの共同保護領となった。 しかし1628年からのマントバ継承戦争の際、再びハプスブルク軍が占領、1635年にはフランスが奪回し、1639年にはグラウビュンデンがフランスに反撃して、1639年9月3日のミラノ講和でグラウビュンデンはスペインへの従属となった。 デンマーク戦争 王は、オランダからへの支援を要請されていたが中立を守った。 しかし、デンマーク王はもともと北ドイツへの勢力拡大と、の覇権確立を狙っており、王国参事会の反対を無視して介入を決定した。 、デンマーク王がとして、長らく空位になっている2つの帝国内の職に自分の息子を就任させる要望を出したところ、ティリー伯の軍がニーダーザクセンに進駐して皇帝に露骨に拒絶された。 これによりデンマーク王は介入への口実を得た。 ハーグ条約によって、イギリスとオランダからの支援を受けた。 反ハプスブルク家のプロテスタント連合は、さらにトランシルヴァニア侯ガブリエル・ベトレン、オスマン・トルコ、カトリックのフランスと共鳴して、ブラウンシュヴァイクのクリスティアンがウエストファリアと下ラインラントのウィッテルスバハ家所領を制圧し、デンマーク王はニーダーザクセンを奪取し、連合軍最高司令官マンスフェルトがハンガリーからのベトレンと合流してボヘミアとシュレジエンとモラビアに侵入する計画であった。 スウェーデンは同盟による支援を受けて5月に主戦場ニーダーザクセンに進軍した。 これに対して皇帝軍は、ティリー率いるカトリック連盟軍に加えて、ボヘミアの傭兵隊長を皇帝軍総司令官に登用し、10万人の軍を率いた。 デンマークは当初はスウェーデンとの共同介入であったが、両者の主導権争いの結果、スウェーデンは問題に注力し、デンマーク単独での介入となった。 デンマーク王の参戦に対してイングランドは資金を提供し、(総司令官)、の2人の傭兵隊長の軍を援軍として派遣したが、デンマーク軍と傭兵部隊の間では戦略についての主導権争いが発生し、ついに別行動を取るようになる。 これは皇帝軍の各個撃破の好餌となり、マンスフェルトは4月 ()で敗北した。 マンスフェルトはベネチアに支援を求める途中で死んだ。 ブラウンシュヴァイク公クリスティアンはに病死し、のでティリー皇帝軍はデンマーク軍に勝利し、まで追撃し、それに呼応してヴァレンシュタインもまで追った。 デンマークが帝国内に領有していた、デンマーク側に加担していた領も皇帝軍が占領した。 夏、ヴァレンシュタインが帝国海軍基地確保のためにの港を、スウェーデンは介入を決定した。 しかし、ヴァレンシュタイン軍を追撃しようとクリスチャン4世が再上陸して返り討ちに遭い( ())、に「」が皇帝との間で成立し、領土は没収されずに維持されたものの、帝国への介入を禁じられた。 これによってデンマークは北欧の覇者としての地位がゆらぐこととなった。 なお、イングランドも当初はドイツに軍を派遣したり、フランスとハーグ同盟を結んだり、マンスフェルトに資金提供したりして三十年戦争に介入していたが、フリードリヒ5世の義父だったイングランド王ジェームズ1世が1625年に亡くなりが即位すると、側近のはフランスとの協調外交で反ハプスブルクとプファルツ救援を掲げてスペインのに艦隊を派遣した。 ところが、マンスフェルトの大敗及びカディスの遠征失敗でバッキンガムは人望を失い、にフランスに宣戦布告したがフランス・スペインの同盟締結でフランスも敵に回してしまい、の敗北でバッキンガムは更に権威を失墜、から失敗を責められ、にバッキンガムが暗殺されるとチャールズ1世は1629年にフランスと、にスペインと和睦して三十年戦争から手を引いた。 このとき、スペインからイングランドへ大量のメキシコ銀が流入した。 以後チャールズ1世は財政再建を進めようと専制政治を行い、それが元で議会と衝突してにを引き起こし、三十年戦争終結後のに処刑されの成立に繋がった。 復旧勅令 デンマークを破った皇帝フェルディナント2世の権威は、1629年3月6日の発令で1552年以降プロテスタント諸侯に没収された教会領地をカトリック側に返還することを命じた。 また、皇帝の許可の無い同盟の締結も禁止された。 これは皇帝権のピークであり、皇帝絶対主義を意味した。 ただし、これはカトリック教会の再建というよりも、ハプスブルク家門勢力の増大が意図されたものだった。 しかし、領土削減の危機に立たされたプロテスタントのザクセン選帝侯はおろか、カトリック選帝侯バイエルン公も反対に回り、1630年8月のレーゲンスブルク選帝侯会議ではヴァレンシュタイン軍の横暴であるため罷免を求め、復旧勅令はハプスブルク家によって利用されていると批判した。 皇帝は復旧勅令については譲歩しなかったが、ヴァレンシュタイン罷免には同意した。 この時、すでにスウェーデン軍はポメルンに上陸していた。 マントバ継承戦争 詳細は「 ()」を参照 ヴァレンシュタインがバルト海・大西洋提督に任命されたことは、スウェーデンのバルト海の覇者としての地位を脅かした。 スウェーデン王 が1631年1月にフランスと同盟を組み() 、フランスからの資金援助を受けて3万の軍を率いて参戦し 、ポメルン、メクレンブルクから皇帝軍を駆逐した。 しかし、新教諸侯のブランデンブルク、ザクセン選帝侯は参戦をためらい、は陥落した()。 ティリーが復旧勅令執行のためザクセンに進軍すると、皇帝派だったザクセン選帝侯ヨハン・ゲオルグはスウェーデン側に寝返った。 スウェーデン軍は、の北方、ブライテンフェルトで皇帝軍と対峙し、新式の軍制、装備、戦術を有するスウェーデン軍の圧倒的勝利に終わった()。 さらにスウェーデン軍はヴュルツブルクを攻略し、11月にはアルニム率いるザクセン軍がプラハを攻略した。 ブランデンブルク選帝侯も、スウェーデン軍と同盟を結ぶに至った。 1632年2月にスウェーデン軍はミュンヘンへ南下、にはで皇帝派のバイエルン軍に対し、砲兵の効果的な運用で再びスウェーデン軍が圧勝した()。 負傷した総司令官ティリー伯はまもなく戦死し、皇帝軍は大きな損害を被った。 皇帝側はボヘミアに引退していたヴァレンシュタインを再び総司令官に任命して4万の軍を編成し、巻き返しをはかった。 夏ヴァレンシュタインはボヘミアに進駐するザクセン軍を駆逐し、ニュルンベルクでスウェーデン軍を破り、ザクセンへ向かった。 、両者は郊外のリュッツェンで戦闘を開始した。 会戦当初、戦局は皇帝軍に不利に動き、援軍の指揮官 ()も来着直後に戦死したが、スウェーデン王グスタフも戦死した。 「スウェーデン王戦死」の報は皇帝軍の士気を上げたが、スウェーデン軍は傭兵隊長が指揮を引き継ぎ、結局皇帝軍はこの戦闘に敗れた()。 スウェーデンの王都では、王女が国王に即位する。 幼い女王の下スウェーデンの実権は宰相が引き継いだ。 しかし、スウェーデン軍とプロテスタント諸侯との分裂を引き起こした。 オクセンシェルナは4月に、ドイツ諸侯の自由の回復を求めていた南ドイツの帝国クライス、クーアライン、オーバーライン、シュヴァーベン、フランケンとの間にを締結した。 これを受けてフランスのは、プロテスタント諸侯へのフランスの影響力を保持するためスウェーデンと取引をし、カトリック国であるにも拘わらずフランスもこの同盟に参加する。 三十年戦争は新しい局面を迎えることになった。 フェルディナント大公 後に皇帝となる。 一方、スペイン軍がイタリアからスイスを通ってライン川上流地域に進出した。 ヴァレンシュタインは独断でスウェーデン軍と和平を交わし、さらに1634年には将官たちに彼個人への忠誠を誓約させたため、された。 皇帝は嫡男のを総司令官に任命し、1634年9月でスウェーデン・プロテスタント諸侯軍を撃破した。 スウェーデン軍は重大な被害を受け、三十年戦争の主導権を失った。 この勝利によって南ドイツを取り戻し、プロテスタントから主導権を奪い返したフェルディナント2世は諸侯との和睦に動いた。 フェルディナント2世はマクシミリアン1世とヨハン・ゲオルク1世、ゲオルク・ヴィルヘルムら選帝侯達との和解、スペインの参戦に勇気付けられ、他方では戦闘が続いているにもかかわらず、三十年戦争終結へ向けて復旧令の撤回と引き換えに諸侯の和解を図り、にを締結した。 皇帝フェルディナント2世はカトリック至上主義は放棄したが、諸侯の同盟禁止が明記されていたためカトリック連盟解散で優位に立ち、の選帝侯会議でのローマ王選出にようやく成功した。 しかしこの条約は皇帝の威光を高めはしたが、結局は一時的なものでしかなかった。 スウェーデン軍はかつての勢力を失い、ハイルブロン同盟が崩壊しながらも、宰相オクセンシェルナの手腕によってフランスがハプスブルク家に対抗して直接介入させることに成功したのである。 フランス・スペイン戦争 詳細は「」を参照 フランスにとって当面の敵は皇帝でなくスペインだった。 フランスはこれまでハプスブルク家に対抗して1631年からメッツ、ロートリンゲン、エルザスを確保したうえで1635年にスペインに宣戦した。 皇帝への宣戦は1638年である。 トルステンソン率いるスウェーデン軍は巻き返しを図る。 この戦役では、フランス宰相リシュリュー、スウェーデン宰相オクセンシェルナ、神聖ローマ皇帝フェルディナント3世の戦略がぶつかり合うことになった。 とコンデ親王率いるフランス軍は主にスペイン軍と、スウェーデン軍は皇帝軍と戦った。 しかし、ドイツの国土は荒廃しており、戦争は地域的に分散した。 皇帝軍はのでスウェーデン軍に敗れ、勝利したスウェーデン軍は再びドイツへ侵攻する。 これ以降、反ハプスブルク勢力の情勢は好転した。 ネーデルラントではオランダがスペインを破り、の要塞を陥落させる( ())。 この勝利はオランダの独立を確実なものとし、逆にスペインの覇権の翳りを示すものであった。 こうした情勢の中、にフェルディナント2世が死去した。 新皇帝には、ネルトリンゲンの戦いで名声を得たローマ王フェルディナントがフェルディナント3世として即位した。 フランス軍の傭兵隊長となったベルンハルトも攻勢に出て、、 (、)、、 (、)を陥落させてアルザスを占領、スペイン回廊を寸断した( ())。 ただしベルンハルトはフランスといざこざを起こし、翌に彼が急死すると配下の軍勢はフランス軍に編入された。 一方のヨハン・ゲオルク1世とゲオルク・ヴィルヘルムは皇帝側に留まり、後にザクセン軍とフランス軍は交戦することとなる。 同年、スウェーデン軍はハイルブロン同盟から寝返ったザクセン軍をで破り( ())、ボヘミアに侵攻したが、スウェーデン軍の ()将軍の野心によって統率が乱れ、撃退されている。 翌1639年、でフランス軍、スウェーデン軍、ブランデンブルク選帝侯軍が邂逅している。 もっともブランデンブルク軍は、後に「大選帝侯」と呼ばれたが翌に亡くなったゲオルク・ヴィルヘルムの後を継いで選帝侯となると防衛戦争に切り替え、にスウェーデンと和睦して事実上中立の立場をとった。 和平会議の開始と戦争の行方 1640年頃から皇帝は和平に向けた動きを見せ始めるが、その高圧的な態度に応じる勢力はいなかった。 しかもスペイン軍は、この時期からフランス・オランダの前に敗退を重ね、没落の兆しを見せていた。 なおこの年、スペインのくびきを脱したが独立し( 、さらにカタルーニャも反乱をおこし、スペインは苦境に立たされた。 またフランス軍がピレネーに進出し、ドイツ方面へ軍を派遣できなかった。 帝国等族は皇帝軍からどんどん脱落していき、1640年にはブランデンブルク選帝侯ヴィルヘルムがスウェーデンと休戦条約を交わした。 バイエルン公は同年ニュルンベルクで選帝侯会議をひらき、翌年のレーゲンスブルク帝国議会では皇帝と諸侯にフランスとスウェーデンとの交渉を委任した。 1641年12月には、フランス、スウェーデンとの講和会議が決定されたが、調停や権利要求で紆余曲折をして、議事は進まなかった。 、皇帝軍は ()で再びスウェーデン軍に敗北、さらに逼迫した皇帝は和平の道を模索し始めた。 この頃になると、帝国全体で厭戦気分が蔓延するようになる。 1642年の暮れにはの両岸で和平会議が設置されたが、にようやく交渉が開始される。 しかし、交渉を優位に運ぶために、戦争を終わらせるための戦いが激化するという矛盾した状況になっていく。 (、)(: Reichsunmittelbarkeit)によって国際会議は設置されたが、戦争の主導権を奪い返したスウェーデンが和平会議も牛耳って行く。 この時期フランスでは、1642年に宰相リシュリュー、翌1643年にフランス王が相次いで死去した。 リシュリューの政策は新宰相に引き継がれるが、新国王はまだ幼く、フランス国内は不安定となった。 そのためマザランは、引き継いだ政策のうち「国王を神聖ローマ皇帝に」という野心を放棄せざるを得なくなる。 しかし、にフランス王族の(後のルイ2世)がでスペインを殲滅、さらに1644年のでカトリック軍の中心であるバイエルン軍を破ったことで、フランスは三十年戦争における勝利を確実なものとした。 スウェーデン・デンマーク戦争 トルステンソン戦争 一方スウェーデンは、ドイツで転戦するスウェーデン軍を背後から脅かすデンマークと戦端を開いた。 皇帝軍に敗北したデンマークは、皇帝軍に度々勝利して勢力を拡張するスウェーデンに対して、影響力の復活をもくろみ、皇帝へ接近したり、エーアソン海峡税を引き上げるなどしてスウェーデンを牽制していたため、両者の緊張が高まっていた。 海峡税の引き上げはオランダとスウェーデンの接近を許すこととなった。 1643年、スウェーデンはユランに侵攻、も味方につけて、スウェーデン・オランダ連合艦隊はデンマーク艦隊を屈服させ、1645年8月のブレムセブルー講和条約でデンマークはノルウェーの一部やを割譲することとなり、の覇権をスウェーデンに奪われた。 またこの戦争で将軍が復帰している。 皇帝軍はデンマークの支援に駆けつけたが、惨敗した。 この戦争はスウェーデン軍指揮官の名前からと呼ばれる。 スウェーデン・ボヘミア戦争 スウェーデンは三十年戦争の勝利を確実にするために、再びボヘミアへ侵攻する。 、近郊のでまたしても皇帝軍は大敗した。 この時プラハにいた皇帝フェルディナント3世は狼狽してへ逃亡したが、これはかつてのフリードリヒ5世の逃亡に酷似していたため「フェルディナントの逃亡」と揶揄された。 この事件はハプスブルク家の敗北を決定的なものとし、バイエルン軍も ()でフランス軍に敗れ指揮官 ()を失った。 マクシミリアン1世はフランスとよりを戻し、孤立したヨハン・ゲオルク1世も1645年にスウェーデンと休戦条約を締結した。 ヴェストファーレン条約の締結 この一連の戦況によって和平会議は一気に進展した。 国際会議にはイングランド、ポーランド、、を除いた全てのヨーロッパ諸国が参加していた。 しかしに皇帝軍がバイエルンに合流することを恐れたスウェーデンが、バイエルンに再度侵攻する。 フランスはこれを越権行為として、スウェーデン牽制のためにテュレンヌ将軍を派遣した。 両者に挟まれたマクシミリアン1世は翌に屈服・休戦したが、バイエルン軍の将軍 ()が反乱を起こして皇帝軍に合流し、ヤンカウの敗戦で打撃を受けた皇帝軍は驚異的な復活を成し遂げる。 、ミュンスター講和でスペインとネーデルラントの個別講和が行われた。 劣勢を挽回した皇帝・バイエルン連合軍は、に近郊のツスマルシャウゼンで ()とテュレンヌの率いるスウェーデン・フランス連合軍との戦闘に臨んだが大敗する(。 しかし、スウェーデンはなおボヘミアの征服とプロテスタント化を諦めず、1648年7月26日以降もプラハでは戦闘が続いた。 今やカトリックの最後の砦となったプラハは激しく抵抗し、降伏には応じなかった。 後にスウェーデン王となる(スウェーデン軍総司令官・クリスティーナの従弟)も援軍に駆けつけ、包囲戦は3ヶ月にも及んだ。 更に皇帝側の頼みの綱だったスペインも、でコンデ公率いるフランス軍に敗れ()、大勢は決した。 ツスマルシャウゼンで勝利したスウェーデン軍はプラハを包囲、占領した後に帝都を攻める態勢を固めた。 和平交渉においてスウェーデンは、過度な要求を皇帝に突き付けたが、クリスティーナ女王はの平和と安寧のために皇帝に迫って新教徒の権益を拡げさせた。 引き替えに女王は、スウェーデンの膨大な要求を引き下げ寛大な譲歩を行った。 この譲歩によって和平交渉は進み、皇帝が和平条約への署名を決断したに がとで締結され、三十年戦争は終結した。 前者はフランスと、後者はスウェーデンに関わる内容だった。 戦争終結を祝し、70門の大砲の一斉射撃が行われた。 11月2日、プラハに条約締結の報が届いた。 条約では、トゥール、の司教領、エルザス()のズントガウなどがフランスに割譲され、スウェーデンは(前ポンメルン )、、、を得て、さらに帝国議会の議席も得た。 この意味でフランスとスウェーデンは三十年戦争の勝利者ともいわれる。 さらにスイスとネーデルラント共和国の独立が正式に承認された。 他方、スペインは和平対象から外された。 このためスペインとフランスの対立は1659年のまで持ち越された。 帝国内ではアウクスブルクの宗教平和令の有効性が確認され、対立の原因でもあった「聖職者に対する留保」条項は破棄され、1624年における宗派分布が基準とされ、これにもとづき諸領域はどの宗派に属するかが決定された。 さらにカルヴァン派も公認され、帝国議会では新旧両派の合意によって決定されることとなり、これによって宗教問題が帝国内の紛争の原因となることは基本的にはなくなった。 ただし、信仰の自由は領邦君主に許されるままで、個人の自由は認められなかった。 皇帝の権限は後退し、帝国等族の権利が強まり、外国との戦争、法の発布には帝国等族の同意が必要とされるようになった。 こうして「ドイツの自由」は「帝国等族の自由」となった。 三十年戦争時の虐殺を描いたによる版画『』(1632年) この戦争は、神聖ローマ帝国という枠組みを越えて全ヨーロッパの情勢に多大な影響を与えた。 (ウェストフェリア条約)によって、ドイツでは帝国等族の領邦高権が認められていくなど、「神聖ローマ帝国」または「」は無力化した。 また、条約でフランスの優位が規定されてその後のヨーロッパの国際情勢を規定することになったため、が形成された。 ヨーロッパに新たなのシステムの端緒とされ、の視点が芽生えたといわれる。 ただし、近年はヴェストファーレン条約によって近代国際法が開始したというのは19世紀半ばに作られた神話であり、消滅後の主権国家の併存体制が形成された時代の産物であると指摘されている。 フランスにとってはハプスブルク家の弱体化が目的であり、これはフランスとスウェーデンがドイツの保証国となり、帝国等族の自立の強化によって達成された。 そのため、ドイツの国民国家としての統一への道は閉ざされ、ドイツの後進性が決定づけられた。 他方、領邦的分裂は文化や教育の普及をもたらした。 フランスはこの戦争後もスペインと戦争を1659年まで継続した。 また、この戦争は欧州経済の転機となり、スウェーデンへはから資本が、から鉱山開発技術が流れこみ、またスウェーデンからオランダへ大量の武器が輸出されるようになった。 ドイツでの経済が1619年から1623年のによって没落し、の諸都市や、金融取引に巻き込まれた南ドイツの諸都市もおおむね破滅した。 長期間にわたる戦闘や傭兵による略奪でドイツの国土は荒廃し、当時流行していた(黒死病)の影響もあって人口は激減した。 戦前の1600万人が戦後は1000万人となった。 ただし、死亡者のみでなく、移動した数も含まれるし 、地域によって被害は異なる。 総人口は全般的に増加したともいわれる。 戦時中はを維持する課税で人々は苦しんだ。 しかも課税は敵・味方の区別なしに現地で調達され、物資も暴力的にされ、傭兵軍による略奪がなされた。 また当時は(1560年〜1700年 であり、やも氷結し、凶作をもたらした。 さらに、ペスト、コレラ、チフスなどの疫病が蔓延した。 農民は略奪から資産を守るために都市へ避難したため、1650年以降都市は成長した。 交戦国間の経済にも多大なマイナス効果を及ぼすことになった。 伝統的な封建階級は没落し、代わって層など新たな階層が勃興する契機となり、領邦各国が的な化した。 このような中、求心力を弱めたに代わりが台頭、ドイツ民族の政治的重心が北上し、後世のにおける、の萌芽となった。 神聖ローマ帝国は、この後もに解体されるまでの間存続した。 オーストリア・ハプスブルク家は帝位は保つが、実態としてはではなく、後にとして18世紀、19世紀を生き延びることとなった。 ボヘミア・プファルツ戦争(1618年 - 1623年)• 、と、で衝突• 、、軍敗退• 、、位を獲得• 、、、、、、、反で結束• デンマーク・ニーダーザクセン戦争(1625年 - 1629年)• 、 ()、軍敗退• 、、デンマーク軍敗退• 、デンマーク、スウェーデンと同盟。 ()、デンマーク軍敗退• スウェーデン戦争(1630年 - 1635年)• - 1631年、、カトリック軍による• 、、スウェーデンとフランスがを締結• 1631年、、新教軍の勝利• 、、新教軍の勝利。 1632年、、新教軍の勝利。 、プロテスタント諸侯を糾合したを締結• 、、皇帝派によって• 1634年、、新教軍敗退• フランス・スウェーデン戦争(1635年 - 1648年)• 1635年、スウェーデン、に撤退。 フランス参戦• 、、スウェーデン軍、皇帝軍撃退• 、 ()• 、スウェーデン軍、ボヘミアに侵攻、敗退• 1638年、 ()、ザクセン軍、皇帝軍を撃破• 、 ()• 1639年、フランス軍、スウェーデン軍、軍、で合流• 、皇帝、和平交渉を開始• 、 ()、スウェーデン軍、皇帝軍を撃破• 1642年、、フランス軍、スペイン軍を壊滅させる• 、、フランス軍、軍を撃破• 1644年、、で和平会議始まる• 、、スウェーデン軍、皇帝軍を撃破。 に肉薄。 ()、フランス軍、バイエルン軍を撃破• 、バイエルン選帝侯、降伏• 、、フランス・スウェーデン連合軍、皇帝・バイエルン連合軍に勝利。 、フランス軍、スペイン軍を撃破。 スウェーデン軍、プラハを包囲• 1648年、締結• 対スペイン戦争 1625—30 内1627—29は対フランス戦• ハンガリー語版Wikipediaの記事「」()も参照されたい。 において、デンマークは、スウェーデン及びネーデルラント連合と戦った。 の軍隊は、5,000人のハンガリー槍兵、1,000人のドイツ人傭兵に加え、約35,000人の反ハプスブルク家勢力で構成されていた。 から西のを通り、北上してとを通過してネーデルラントに到着する道と、ミラノから北へ進みスイス東部を貫き、国境線に沿いながらアルザスで最初の道と合流するルートを指す。 また、2つ目の道からスイスとミラノの国境で東に分かれ、ヴァルテリーナ渓谷を通過して・を経てオーストリアに辿り着くルートも存在し、これらのルートで軍と物資の輸送を行っていたため確保に全力を注いでいた。 なお、プファルツ選帝侯の息子のはイングランド王の娘と結婚している。 www. bartleby. com. 2008年5月16日時点の [ ]よりアーカイブ。 2008年5月24日閲覧。 ユーリヒ=クレーフェ=ベルク公は、ユーリ匕公 、クレーヴェ大公とも表記• フリードリヒ5世はその後も復位を狙っていたが、スウェーデン王グスタフ2世アドルフの戦線復帰要請は拒み、に客死した。 グスタヴ・アドルフとも表記 出典 []• , p. 573. 1620年に投入されたベトレン・ガーボルの兵。 Norman Davies, Europe, p. 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三十年戦争

アウステ ル リッツ の 戦い

ニヴフ集落2002地図 ニヴフはの担い手であったという説がある。 樺太の他の先住民ウィルタと同様、古くは狩猟・漁猟をしていた。 また近世にはのやウィルタとともに日本との貿易の仲介()もしていた。 前に日本領だった南樺太に居住していたニヴフは樺太戸籍に登録されて樺太土人として扱われて内地人と区別されていたが、日本をもっていた。 日本国籍を保有するニヴフは日本の敗戦後に(など)へ進んで移住した。 終戦後の日本では1945年に樺太戸籍にあったニヴフの参政権が停止されたものの、1952年の発効の際に就籍という形で参政権を回復した。 現在の人口は両国合わせて数千人と考えられるが、多くは領内に住む。 日本では明確な統計は存在しない。 『現代のアイヌ : 民族移動のロマン』(菅原幸助、現文社、1966)によれば1966年時点で網走3世帯、函館2世帯、札幌3世帯で30人いたとされる。 名称 [編集 ] ギリヤークはモンゴロイド、ニヴフ男性。 「ニヴフ」という自称はアムール川下流部で「人」を意味する語に由来するものであり、樺太東岸ではニグヴン(Nigvyng)というが、これも「人」を意味する。 アイヌは樺太北部東岸を「ニクブン」・樺太北部西岸や大陸を「スメレンクル」と呼んだ。 は「スメレンクル夷」と記したが、これは樺太アイヌ語の「sumari(キツネ)」と、アイヌ語で人をいう「クル」が合わさった「キツネびと」を意味する名称という説がある。 「ギリヤーク」という名称はロシア語風に訛ったものであり、もともとは「ギリミ(吉里迷)」といった。 歴史 [編集 ] 右が男性、中央が女性のニヴフ。 左はの男性を描いた絵(1862年) 元朝によるアイヌ攻撃 [編集 ] 下流域からにかけての地域に居住していた 吉里迷(ギレミ、吉烈滅)は、モンゴル建国の功臣(木華黎)の子孫であるシデ(碩徳)の遠征により(4年)にモンゴルに服従した。 翌(元年)に吉里迷の民は、 骨嵬(クイ)や 亦里于(イリウ)が毎年のように侵入してくるとの訴えをクビライに対して報告した。 ここで言う吉里迷はギリヤーク(ニヴフ)、骨嵬(苦夷・とも)はを指している。 亦里于に関してはかつてツングース系民族(ウィルタ)と見る説が有力であったが、近年では骨嵬とは別のアイヌ系集団であったとする説が唱えられている。 この訴えを受け、元朝は骨嵬を攻撃した。 これがいわゆる「」(ニヴフや元朝の視点では「南からの骨嵬・亦里于襲来」 )の初めであり、に対する侵攻(、1274年)より10年早かった。 間宮林蔵とニヴフ [編集 ] が西岸のニヴフ集落を訪れたのは1808年と1809年、海峡を渡り・下流部に入ったのは1809年であった。 習俗 [編集 ] 衣服 [編集 ] 伝統的な衣装を着たニヴフハンター-スキー(シャツ)とコスク(スカート)。 サハリン州。 下着にはズボン下とシャツがあり、その上からズボンと、膝まで達するシャツを着る。 シャツは左から右へ合わせ、首と胸のところでとめる。 肌着は中国製の青または灰色の木綿でつくられる。 履物はアザラシの皮製長靴であり、甲の部分と靴底は毛を取り除いたアザラシの皮を利用し、胴の部分は毛を表にしたアザラシの皮で膝まで達し、ズボンをその中に入れて紐で縛り付けた。 かぶり物は雨と日光を避けるためにヒブハク hib-hak と呼ばれる笠をかぶる。 住居 [編集 ] ニヴフの夏の村(20世紀初頭) 間宮林蔵やシュレンクはニヴフの建物を4つに分類している。 穴居せざる者の居家• 穴居する者夏居る処の家• 倉庫 「穴居」というのは半地下式住居のことで、ニヴフ語で「トルフ toryf」と呼ばれる。 現在では見られなくなったが、1960年代までは存在していたとみられる。 外観は土まんじゅうの形をなしており、冬には雪に覆われ、煙出しの部分だけが黒く見える。 内部は木でピラミッド状の骨組みが組まれ、その上から土をかぶせて外壁としている。 天井にはタマ・クティ tama khuty と呼ばれる煙出し穴があるが、明りとりの役割もあった。 入口は必ず東向きに造られ、土まんじゅうから突き出ている。 半地下なのでしきいと土間の間に段差があるため、階段がある場合とない場合があり、いくらか危険がある。 「穴居せざる者の居家」というのは19世紀になって、ニヴフに広まった穴居に代わる住居スタイルであり、ニヴフ語で「チャドルフ chadryf」と呼ばれるものである。 これは丸太を組んだ状の家屋であり、半地下ではなく地上型となったため、窓ができて明りとりがしやくすなったが、冬に寒風が吹きこんでくるという問題点があった。 内部は土間があり、が2つある。 土間の中央には犬を飼うための長い板 kangyl が設けられていた。 「穴居する者夏居る処の家」というのはニヴフの夏期の家屋であり、「ケルフ keryf(海の家、海岸の家)」と呼ばれる。 ニヴフは10月から5月までは冬用の家で暮らすが、5月から10月は夏用の家で暮らす。 夏季用住居は地上にそのまま建てる地上式と、杭上に建てる高床式があった。 「倉庫」というのはのことで、ニヴフ語で「ニョ nyo」と呼ばれる。 構造は夏季用住居のケルフとほぼ同じであるが、食糧庫として利用されていたため、杭(切り株)の上にはネズミ除けが設けられていた。 氏族 [編集 ] スモリャクの調査によると、19世紀末から20世紀初頭にかけてギリヤークの氏族は67を数えた。 氏族名は熊,アザラシ,鳥などの動物名、人のあだ名、一年の月名、場所名などに由来するものが多かった。 飲食物 [編集 ] ニヴフの熊祭り 楽器 [編集 ]• 言語系統 [編集 ] ニヴフの言語()は、島嶼方言(樺太方言)と大陸方言(アムール川流域方言)で大きく異なる。 系統不明であり、便宜上(古アジア系)に分類されている。 とも、に属するやに属する近隣の諸言語とも全く系統を異にする言語である。 ロシアの二ヴフ人一覧 [編集 ] (1935年 - 文学者、詩人『ケヴォングの嫁取り』サハリン・ニヴフの物語 日本のニヴフ人一覧 [編集 ]• 中村チヨ (1906年 - 1969年)樺太生まれ。 父が山丹人()。 母がニヴフ。 その後、岩内に2年住んだのち、網走に移住。 『ギリヤークの昔話』の語り手。 作品 [編集 ]• 『ギリヤーク族の古き吟誦歌』 - 声楽曲• 「幸福な若いギリヤク人」『大江健三郎全作品 第3』(、1966年。 ふじ沢光夫『ギリヤークふんぐり団』 - 漫画(「」連載)• - 大道芸人、舞踏家。 『』 - 物語の中で、ギリヤーク人について描写したの小説が引用される• 『異貌の人びと』(、2012年。 ISBN 4309021085) - ルポルタージュ。 第二次世界大戦でニブフと行動を共にした元下士官へのインタビューがある。 参考資料・文献 [編集 ]• 高橋盛孝『樺太ギリヤク語』朝日新聞社(大東亜語学叢書 : 羽田亨監修)1942年(昭和17年)• 『北東アジア民族学史の研究』(、、1986年。 ISBN 477040638X)• 『ギリヤークの昔話』(中村チヨ、、 ロバート・アウステリッツ ()、、1992年。 ISBN 4832892061)• 『新サハリン探検記』(相原秀起、、1997年。 ISBN 4784503668)• 『服部健著作集 ギリヤーク研究論集』(服部健、北海道出版企画センター、2000年。 ISBN 483280006X)• ISBN 4915730522) 脚注 [編集 ] []• , 本間浩昭『知床・北方四島 カラー版 流氷が育む自然遺産』、2008年、19頁。 978-4-00-431135-5。 Schrenck,p117• ニッポニカ 『』 -• (丹菊逸治 2009. 22)によると、「1990年代になると、少なくともロシア国内において、公の場では「ギリヤーク」という呼び名は姿を消し、名実ともに「ニヴフ」が用いられるようになります。 」とある。 中村2010、414-415頁。 『元史』巻119「木華黎伝」附碩徳伝。 クイ(骨嵬・蝦夷)はニヴフ語でを意味するkuyiを音訳したものと思われる。 『北方世界の交流と変容 中世の北東アジアと日本列島』(臼杵勲・菊池俊彦・天野哲也編、山川出版社、2006年、ISBN 978-4634590618)「金・元・明朝の北東アジア政策と日本列島」(中村和之) p111-115• 『』「世祖本紀」至元元年十一月丙子(1264年11月25日)条。 エゾの歴史 海保嶺夫 ISBN 978-4061597501 初版96年• 田島等の2004年の論文"Genetic Origins of the Ainu inferred from combined DNA analyses of maternal and paternal lineages"による• (ロシア語) 関連項目 [編集 ]• 外部リンク [編集 ]• (英語).

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オステルリッツ駅

アウステ ル リッツ の 戦い

なお、実際にはフランツ2世は戦場から離れた場所にいた。 1805年、は、などとを結成し、へ侵攻した。 ナポレオン率いるフランス軍はでオーストリア軍部隊を降伏させ、11月13日にへ入城した。 はへ後退し、との率いるロシア軍と合流した。 ナポレオンもを渡ってへ進出し、アウステルリッツ西方へ布陣した。 そのころ、いまだイタリア方面にはのオーストリア軍部隊がほぼ無傷で残っており、これらの部隊が集結する前にロシア・オーストリア連合軍主力を叩く必要があった。 そこでナポレオンは、敵の攻撃を誘うため、罠を仕掛けた。 ナポレオンの戴冠式から1周年の記念日にあたる1805年12月2日午前8時、ロシア・オーストリア連合軍約85,000はアウステルリッツ西方のプラツェン高地へ進出し、優勢な兵力をもってフランス軍への攻撃を開始した。 フランス軍は73,000と劣勢であった。 またその布陣は、後方との連絡線確保のうえで重要な右翼(南側)が手薄であった。 アレクサンドル1世はこれを好機とみて、主力をからフランス軍右翼へと向かわせた。 フランス軍右翼を守るの第3軍団は攻撃に耐え切れずに押し下げられたかに見え、さらに多くの連合軍部隊がフランス軍の陣前を横切ってフランス軍右翼へ殺到した。 だが、ナポレオンは、手薄になった連合軍の中央部にの第4軍団を突入させた。 中央を守っていたクトゥーゾフはロシア近衛軍団を投入し、フランス軍と激戦を繰り広げたが、の第1軍団の援護とナポレオンによるの投入によってプラツェン高地の連合軍は突破された。 中央突破に成功したスルト軍団は、ダヴー軍団と協力して、フランス軍右翼へ殺到していた連合軍部隊を挟撃した。 夕刻までに、連合軍は15,000人の死傷者 と多数の捕虜を出し、散り散りになって敗走した。 12月26日、オーストリアはを締結してフランスへ屈服し、第三次対仏大同盟は崩壊した。 フランツ2世は神聖ローマ皇帝位から退位。 は解体され、ドイツにはが成立した。 アウステルリッツの戦いとそれまでの戦役はヨーロッパ政治の性格を大きく変えた。 3ヶ月間でフランス軍はウィーンを占領し、2カ国の軍隊を打ち破り、オーストリア帝国を屈服させた。 アウステルリッツの戦いは10年近くに及ぶフランスによるヨーロッパの覇権を容易にしたが、より直接的な影響はである。 背景 [ ] 1792年に勃発した以降、ヨーロッパは騒乱状態にあった。 戦争5年目の1797年にはを屈服させた。 1798年にが結成されたが、1801年までにこの同盟も敗退し、イギリスのみが新たに成立したフランスの敵として残された。 1802年にフランスとイギリスはを結んだ。 この10年間で初めて全てのヨーロッパ諸国に平和がもたらされたが、両陣営には依然として多くの問題が残されており、和約の実施は困難だった。 イギリス政府は1793年以降の植民地征服のほとんどを無効にされたことに憤っていた。 一方、ナポレオンはイギリス軍がから撤収しないことに腹を立てていた。 この緊張状態はナポレオンがを鎮圧すべく派兵したことで更に悪化する。 1803年、イギリスはフランスに対して宣戦布告した。 1804年12月に締結されたイギリス=スウェーデン協定が第三次対仏大同盟の端緒となった。 イギリス首相は1804年から1805年にかけて新たな対仏同盟を結成すべく活発な外交を展開し、1805年4月にロシアとの同盟を成立させた。 二度に渡りフランスに敗北を喫し、復仇を望んでいたオーストリアも8月9日に同盟に加わった。 両軍 [ ] 詳細は「」を参照 ナポレオンは第三次対仏大同盟が結成されるよりも前にイギリス侵攻軍を編成し、北フランスのに6箇所の野営地をつくっていた。 ナポレオンはこの軍隊でイギリスを撃破することを考えており、彼はイギリス征服を記念するメダルを製作させるほど成功を確信していた。 ナポレオンの兵隊がイギリスの土を踏むことはなかったが、彼らはあらゆる作戦に対応できるよう、入念かつ重要な訓練を受けていた。 兵士の間ではしばしば倦怠気分が引き起こされたが、ナポレオンは頻繁に彼らの元を訪問し、士気を高めるための軍事パレードを催している。 当初、このフランス軍は7個から成る約20万人で、各軍団は36から40門のを有し、他の軍団が来援するまで単独で戦う能力を有していた。 1個軍団は(もしも適切な防御拠点に配置されていたなら)支援なしで丸1日戦い続けることができ、このことは全ての戦役において大陸軍に計り知れない戦術的選択肢を与えることになる。 これらの軍隊に加えて、ナポレオンは22,000人の予備騎兵部隊を創設しており、これは2個、4個乗馬師団、1個下馬龍騎兵師団、1個軽騎兵師団から成り、各々が砲24門を装備していた。 1805年時点で、大陸軍は35万人に拡大しており 、装備状況は良好で、よく訓練されており、優れた指揮官に率いられていた。 ロシア軍 [ ] ロシア軍軽騎兵(左)とオーストリア軍歩兵連隊の兵士(右) 1805年時点のロシア軍は旧体制組織( )の性格を色濃く残しており、より上には恒常的な編制はなく、上級将校は主に貴族階層から採用されており、任官は能力によるものではなく売官によるものであった。 ロシア人兵士は訓練が不足しており 、そして(18世紀の基準でも)頻繁に鞭打たれ、「修練を注入するために」手荒く扱われていた。 加えて、将校の多くは能力不足であり 、戦闘に必要な複雑な機動を兵士たちに実行させることは難しかった。 しかしながら、ロシア軍は優秀な砲兵部隊を有しており、砲兵たちは大砲が敵の手に落ちぬよう常に勇敢に戦った。 ロシア軍の兵站は現地調達と同盟軍のオーストリアに依るところが大きく、ロシア軍の補給の7割はオーストリアが提供していた。 ロシア軍は確固とした兵站組織を欠き、その上に補給線が伸びきった状態であり、兵士たちは士気と健康を維持することが難しかった。 オーストリア軍 [ ] (オーストリア皇帝の弟)は1801年に軍制改革に着手し、( :オーストリア軍の意思決定を行う政治軍事会議)から実権を奪った。 カール大公はオーストリア軍では最優秀の指揮官であったが 、宮廷内では人気がなく、彼の意見に反して対仏開戦が決定された際には影響力を失っていた。 代わって将軍が新たな総司令官となった。 戦争の直前に彼は連隊の編制をこれまでの6個から成るが3個から、4個中隊から成る大隊4個に改編させた。 この突然の改編に対応する士官の訓練は全く行われておらず、この結果、新編制の部隊は以前と同様の指揮統率をすることができなくなっていた。 オーストリア騎兵はヨーロッパ最良と見なされていたが、騎兵部隊は多数の歩兵部隊に分遣されており、集中運用されたフランス騎兵に比してその有効性を減じていた。 1805年オーストリア戦役 [ ] ナポレオンはウルムでマック元帥のオーストリア軍の降伏を受け入れた。 1805年8月、ナポレオン(前年12月にに即位)は新たに現れたオーストリアおよびロシアの脅威に対処すべく、軍の目標をからへ振りかえた。 9月10日にオーストリア軍がフランスの同盟国であるに侵攻した。 これに対して、ナポレオンはにおいてバイエルン救援を宣言する。 約20万のフランス軍が隠密かつ迅速な行軍で 、ライン川を渡河した。 マック元帥はオーストリア軍の主力をシュワーベン(現在の南ドイツ)の要塞に集結させていた。 ナポレオンは敵を欺くため一旦北へ軍を向けさせ、その後、大陸軍各軍団は南へ旋回してへの強行軍を敢行し、フランス軍をオーストリア軍の背後に回り込ませた。 この強行軍の成功により、ウルムに篭城していたマックのオーストリア軍23,000は10月20日に降伏を余儀なくされた。 ナポレオンは皇后に宛てた手紙で、ここまでの戦役でオーストリア兵6万を捕虜にしたと述べている。 この大勝利は、翌日に発生したでの大敗によって水を差されたが、陸上での勝利は続き、11月にはフランス軍はを占領してマスケット銃10万丁、大砲500門を鹵獲し、更にに架かる橋を無傷で手に入れた。 一方、ロシア軍の到着は遅れ、オーストリア軍救援に失敗した。 このためロシア軍は北東へ退却して増援を待ち、その上でオーストリア軍の残存兵力と合流することにした。 ロシア皇帝は元帥をロシア=オーストリア連合軍の総司令官に任命した。 1805年9月9日にクトゥーゾフは情報収集のため戦場へと赴いた。 彼はオーストリア皇帝や廷臣たちと作戦計画や補給関連の協議を持った。 クトゥーゾフの圧力により、オーストリアは軍需品や武器を適時かつ十分に提供することに同意させられた。 また、彼はオーストリア軍の防衛計画の欠陥を指摘して「非常に教条主義的である」と評した。 更に彼は、最近までナポレオンに統治されていた土地の併合にも住民の信頼を失う危険があるとして反対していた。 しかしながら、クトゥーゾフの提案の多くは拒否されてしまう。 1805年オーストリア戦役関係地図 フランス軍は追撃したが、直ぐに自らが困難な状況にあることに気づいた。 プロイセンの意図は不明確ではあるが、恐らくは敵対的であり 、ロシア軍とオーストリア軍は既に合流しており、そして、イタリアを守っていたカール大公・のオーストリア軍9万が未だ健在であり皇帝を救援すべく北上していた。 これに加えてフランス軍の後方連絡線は極端に長くなっており、これを維持するために多数の守備兵を必要とした。 ナポレオンはウルムでの勝利を確固たるものとする唯一の手段は連合軍に決戦を強いて撃破することであると確信していた。 一方のロシア軍では、総司令官クトゥーゾフは「自殺的な」オーストリア軍の防御計画に固執することなく、退却を決意していた。 彼は中将に兵600を率いてウィーンのフランス軍を牽制するよう命じ、フランス軍の元帥と停戦交渉をして撤退の時間稼ぎをした。 ナポレオンはすぐにミュラの失敗に気づき、彼に迅速な追撃を命じたが、この時には既に連合軍はにまで退却していた。 クトゥーゾフの計画では連合軍は地方にまで退却することになっており 、「で、私はフランス軍を葬る」と語っている。 だが、ナポレオンはこの事態を座視はしなかった。 彼は連合軍を誘い出すために心理的な罠を仕掛けた。 会戦前の数日間、ナポレオンは自軍が窮状にあり、交渉による和平を望んでいるとの印象を連合軍に与えた。 元帥、元帥そしてミュラ元帥の部隊を含む約53,000人のフランス軍がアウステルリッツとオルミュッツを結ぶ街道に布陣しており、敵軍の注意を引いていた。 連合軍の兵力は89,000人であり、数で圧倒しており、劣勢なフランス軍を攻撃する誘惑に駆られていた。 だが、連合軍は気づいていなかったが、元帥、元帥そして元帥の部隊が来援可能な距離にまで到着しており、更に必要ならばウィーンやの駐留部隊を強行軍によって呼び寄せることも可能だった。 これによってフランス軍の兵力は75,000になり、数的劣勢を補うことができる。 策略はこれに留まらなかった。 11月25日、 ()将軍をオルミュッツの連合軍本営へ派遣して連合軍の状況を秘密裏に調べさせるとともに、戦闘を避けたい旨のナポレオンの伝言を伝えさせた。 想定通りにこの伝言はナポレオンの弱気と見なされた。 27日にフランツ1世が休戦を申し出るとナポレオンはこの受け入れに非常に乗り気な態度を示した。 同日、ナポレオンはスールトにアウステルリッツおよびプラッツェン高地からの撤退と、退却に際して混乱している様子をつくり出すよう命じた。 これによって連合軍はこの高地を占拠することになる。 翌28日、ナポレオンはアレクサンドル1世との会見を申し出て、ロシア皇帝の側近であるドルゴロウキー伯爵の訪問を受け入れた。 伯爵との会見は次の段階の策略だった。 ナポレオンは敵に対して意図的に憂慮や焦燥の態度を見せ、ドルゴルーキーはこの様子をフランス軍の弱さの証拠としてロシア皇帝に報告した。 策略は成功した。 ロシア皇帝の側近や、オーストリア軍参謀長 ()少将を含む連合軍指揮官の多くが即時攻撃を支持し、アレクサンドル1世の意思を変えさせた。 クトゥーゾフの意見は却下され、ここに連合軍はナポレオンの仕掛けた罠にはまった! 作戦 [ ] 会戦に際してナポレオンは兵73,000、砲139門を集めたが、この内ダヴー元帥の兵7,000は未だウィーンからの行軍途上にあった。 連合軍の総兵力は約84,500、砲278門であり、この内の7割がロシア兵である。 フランス軍は兵数では劣勢であった。 当初、ナポレオンは勝利への完全な自信はなかった。 外務大臣への手紙で、皇后を不安にさせたくないので、来たる会戦については誰にも言わないよう依頼している。 歴史学者フレデリック・C・シュナイドはナポレオンの関心はジョゼフィーヌの平静ではなく、フランス軍が敗れた時に彼女にどう言い訳するかであったと述べている。 戦場 [ ] 会戦は(ブルノ)から南西 9. 7 kmの地点、アウステルリッツ(現在の領)との間で行われた。 戦場の北部は標高210mのザソトン丘陵と標高260mのズラン高地に占められており、これらの丘陵からオルミュッツ=ブリュン街道を望むことができた。 これらの丘陵の西側にはベロウィッツ村があり、間にボズニッツ川が流れ、南でゴルトバッハ川と合流しており、後者の川はコベルニッツ村、ソコルニッツ村そしてテルニッツ村にまたがって流れている。 戦場の中央部はプラッツェン高地で標高11-12mのゆるやかな丘陵である。 ナポレオンは元帥たちに繰り返しこう語っている。 「諸君。 この土地を念入りに調べておけ。 ここが戦場となる。 君達はここで戦うのだ。 」 1805年12月1日時点の布陣。 フランス軍(青)、連合軍(赤) 12月1日に開かれた連合軍の作戦会議では、連合軍指揮官の多くが会敵して南側面を制圧し、ウィーンとの連絡線を遮断する作戦を提案した。 ロシア皇帝とその側近たちは攻撃を主張していたが、オーストリア皇帝はやや慎重であり、彼は連合軍総司令官であるクトゥーゾフの助言を受けていた。 だが、ロシア貴族やオーストリア軍指揮官たちの攻撃論は強硬であり、最終的に連合軍はオーストリア軍参謀長ワイロッテルの作戦案を採用した。 この作戦案ではフランス軍右翼(南側)に対する攻撃を主攻とし、この意図を隠す為に敵軍左翼(北側)に助攻を仕掛けることになっていた。 連合軍は戦力の大部分を4つの縦隊に編成させており、クトゥーゾフとブクスホーデンが指揮する、これらの縦隊がフランス軍右翼を攻撃、コンスタンツ大公のロシア軍近衛軍は予備戦力とされ、バグラチオン中将が右翼(北側)を守ることになった。 その上、ロシア皇帝は総司令官の権限をクトゥーゾフから奪い、オーストリア軍のワイロッテル少将に委ねてしまった。 会戦ではクトゥーゾフは連合軍第4縦隊を率いるのみとなったが、ロシア皇帝は自らが選んだ作戦が失敗した際の責任を恐れてクトゥーゾフを名目上の総司令官職に留めている。 フランス軍の作戦と布陣 [ ] ナポレオンは連合軍からの攻撃を望んでおり、このため彼は意図的に右翼(南側)を弱体化させている。 11月28日、本営でナポレオンと元帥たちとが会見した際に元帥たちは来たる戦いへの懸念を表明した。 彼らは撤退さえ進言したが、ナポレオンは部下たちの不安に対して肩をすくめるだけだった。 フランス軍とウィーンとの連絡線を断つべく連合軍はフランス軍右翼に対して戦力を集中させるとナポレオンは予想していた。 その結果、連合軍中央部の側面が曝され弱体化する。 彼らにそうさせるべく、ナポレオンは緊要地形であるプラッツェン高地の放棄までし、自軍の弱体化を装い、更には彼自身の焦燥した様子を敵に見せた。 その一方でナポレオンは主力部隊を高地から死角になる場所に隠させている。 作戦計画では、フランス軍はプラッツェン高地を奪回し、この高地から連合軍主力に対して決定的な攻撃を仕掛けて混乱させ、背面から包囲することになっていた。 「 もしも、ロシア軍が右翼へ向かうべくプラッツェン高地を離れたなら、彼らは確実に敗北するだろう。 」 —ナポレオン 会戦前夜のナポレオンと兵士。 ()画。 連合軍中央部に対する主攻勢はスールト元帥率いる第4軍団の兵16,000によって行われる。 第4軍団の位置は深い霧に覆われており、この霧がいつまで続くかがナポレオンの作戦にとって極めて重要であった。 霧が早く晴れればスールトの部隊が暴露されてしまう。 だが、霧があまりに長く残れば、連合軍がプラッツェン高地から離れたか否か分からず、攻撃のタイミングを適切に判断できなくなる。 その一方で、弱い右翼(南側)を補強するために、ナポレオンはウィーンにいるダヴー元帥の第3軍団に強行軍を命じ、連合軍主力からの猛攻を耐えねばならないフランス軍南方面を守備する ()師団将軍の部隊との合流を図らせた。 ダヴーの部隊は110kmを48時間行軍せねばならなかった。 彼らの到着には作戦の成否がかかっていた。 実際、ナポレオンの布陣では右翼は非常に危険なほど過少な兵力が守備に着いているだけだった。 しかしながら、ナポレオンがこの様に危険な策を採った理由は二つあり、一つは第3軍団司令官のダヴーは配下の中でも最良の元帥だったこと 、もう一つは右翼は河川と湖沼が入り混じった複雑な地形だったことである。 更に、フランス軍は既にブリュン方面への第二の退却路を新設していた。 ()とベルナドット元帥の第1軍団は予備兵力とされ、ランヌ元帥の第5軍団が新設された連絡線を守る戦場北方面の守備に充てられた。 1805年12月1日、連合軍がナポレオンの想定通りに南方へ移動し始めるに従い、フランス軍は配備位置に布陣した。 会戦前夜、ナポレオンが少数の護衛とともに前線の視察に出ると兵士たちが皇帝であると気づき、すぐに兵士たちは「皇帝万歳!」を叫び松明に火を灯して戴冠一周年を祝った。 連合軍の司令官や兵士たちはこの様子を見て撤退の準備であると信じた。 戦闘序列 [ ] 総司令官(名目上): (画像左) (画像右) 実質的司令官: (露) 中将(墺) 総兵力84,500人 、砲278門• (元帥) 兵5,500、砲24門• 第1軍団 (元帥) 兵13,000、砲24門。 前衛隊(第27連隊)• 第1師団( ()師団将軍)• 第2師団( ()師団将軍)• 軽騎兵師団(師団将軍)• 第3軍団(元帥) 兵4,300(騎兵830を含む)、砲12門。 第2師団( ()師団将軍)• 第4師団( ()師団将軍)• 第4軍団(元帥) 兵23,600、砲35門。 第1師団 ( ()師団将軍)• 第2師団 (師団将軍)• 第3師団 ( ()師団将軍)• 軽騎兵師団(ピエール・マルガロン旅団将軍)• 第5軍団(元帥) 兵12,700、砲20門。 第1師団( ()師団将軍)• 第3師団(師団将軍)• 軽騎兵師団(旅団将軍)• 擲弾兵師団( ()師団将軍 ) 兵5,700。 騎兵予備(元帥) 騎兵7,400、砲36門• 第1騎兵師団( ()師団将軍 )• 第2重騎兵師団( ()師団将軍)• 第2竜騎兵師団( ()師団将軍)• 第3竜騎兵師団( ()師団将軍)• 軽騎兵師団(フランソワ・エティエンヌ・ケレルマン師団将軍)• 軽騎兵旅団( ()旅団将軍)• ロシア近衛軍() 歩兵3,700、騎兵100、工兵100、砲40門。 ロシア前衛隊(右翼軍)(中将) 歩兵9,200、騎兵4,500、砲42門。 左翼軍( ()元帥)• 前衛隊( ()中将) 歩兵3,440、騎兵3,440、軽砲12門。 第1歩兵旅団(ゲオルグ・シモン・ド・カルヌヴィル少将)• 第1騎兵旅団( ()少将)• 第2騎兵旅団(ヨハン・ネーポムク・フォン・ノスティッツ=リーネック少将)• 第3騎兵旅団(モーリッツ・リヒテンシュタイン少将)• 第1縦隊( ()中将) 歩兵13,240、騎兵250、軽砲14門、重砲24門。 第1歩兵旅団(ルートヴィヒ少将)• 第2歩兵旅団(ウルーソフ少将)• 第2縦隊( ()中将) 歩兵11,250、騎兵300、軽砲30門。 第1歩兵旅団(オルソヴィエフ少将)• 第2歩兵旅団( ()少将)• 第3縦隊(プリピチェフスキー中将) 歩兵7,700、砲兵30門。 第1歩兵旅団(ミュラ少将)• 第2歩兵旅団(セレイコフ少将)• 第4縦隊(中将および ()中将) 歩兵23,900、軽砲52門、重砲24門。 第1歩兵旅団(Wodniansky少将)• 第2歩兵旅団(ハインリッヒ・フォン・ロテルムンド少将)• 第3歩兵旅団(フランツ・フォン・ユークゼック少将)• 第5(騎兵)縦隊(中将) 騎兵5,375、軽砲24門。 第1騎兵旅団(ヨハン・カール・カラメッリ少将)• 第2騎兵旅団(ヨハン・ヴェーバー・フォン・トロイエンフェルス少将)• 第3騎兵旅団(グラトコフ少将)• 第4騎兵旅団(F. ウヴァーロフ副将) 参考文献• Duffy, Christopher. Austerlitz 1805. Hamden, Conn. : Archon Books, 1977. Smith, Digby. The Napoleonic Wars Data Book. London: Greenhill, 1998. 大陸軍主要将帥• 『アウステルリッツのナポレオン』 シャルル・ヴェルネおよびジャック・フランソワ・ゼーバハ画。 戦いは12月2日午前8時に連合軍第1縦隊によるテルニッツ村攻撃で始まった。 この村はフランス軍第3戦列歩兵連隊が守っていた。 ここでは激しい戦闘が繰り広げられ、数次に渡る連合軍の突撃によってフランス軍は村から追い払われ、ゴルトバッハ川への後退を余儀なくされた。 この時、ダヴー元帥の最初の部隊が戦場に到着し、テルニッツ村を奪回したが、彼らもまた連合軍からの攻撃を受けて村の放棄を余儀なくされた。 テルニッツ村郊外からの連合軍の別の攻撃はフランス軍砲兵によって阻止されている。 連合軍縦隊はフランス軍右翼へと殺到し始めたが、期待された速さではなく、フランス軍はほとんどの場所で防御に成功している。 実際に連合軍の展開は過ちを犯しており、戦機をも失していた。 例えば連合軍左翼に布陣していたの騎兵縦隊が右翼へ配置されることになり、配備地点へと移動する際にフランス軍右翼攻撃に向かっていた第2縦隊の歩兵部隊の中に飛び込んでしまい進軍を遅らせている。 この時、指揮官たちは災厄と考えたが、後にこれが連合軍を助けることになる。 一方、第2縦隊先鋒はフランス軍第26戦列歩兵連隊と( )が守るソコルニッツ村を攻撃した。 連合軍の最初の攻撃は失敗するが、 ()中将が村への砲撃を命じた。 この猛砲撃によってフランス兵は村からの撤退を余儀なくされ、連合軍第3縦隊はソコルニッツ城を攻撃する。 フランス軍は反撃をして村を奪回するも、再び退却を余儀なくされる。 この区域の戦闘は第3軍団の ()師団が村を奪回することにより一時的に収まった。 テルニッツ村とソコルニッツ村は、恐らくこの会戦最大の激戦区であり、この日は幾度も主を変えている。 連合軍がフランス軍右翼を攻撃している間、クトゥーゾフの第4縦隊はプラッツェン高地に留まり動かなかった。 ナポレオンと同じく、クトゥーゾフはプラッツェン高地の重要性を認識しており、この場所を守る決意をしていた。 だが、若いロシア皇帝の意思は異なり、クトゥーゾフに高地からの移動を厳命し 、これが連合軍を死地へと追いやることになる。 「ただ一撃で、この戦争は終わる」 [ ] 第4軍団のサンティレール師団とヴァンダム師団による連合軍中央部攻撃によって連合軍は分断され、フランス軍は会戦を決する最重要の位置を手に入れた。 午前8時45分頃、敵軍中央部が手薄になったと確認したナポレオンがスールト元帥に対して部隊が高地に到達する為に必要な時間を尋ねると彼は「20分以内です。 陛下」と答えた。 その15分後、ナポレオンは攻撃命令を下し、「ただ一撃で、この戦争は終わる」と付け加えた。 中央部攻撃を担当する部隊はスールト元帥の第4軍団に所属する ()師団将軍と師団将軍が指揮する2個師団である。 深い霧がサンティレール師団の前進を覆い隠したが、彼らが斜面を登っていると霧が晴れて太陽が浮き上がり、前進する兵たちを奮起させた。 このエピソードは「 アウステルリッツの太陽」( soleil d'Austerlitz)として知られる。 丘の上のロシア兵と指揮官たちは、多数のフランス兵が彼らに向かって進撃している姿を見て驚愕した。 ここで、フランス軍右翼への兵力移動が遅滞していたことが幸いし、連合軍指揮官は第4縦隊の一部を高地争奪戦に投入できた。 だが、1時間を越える戦闘の後、この部隊のほとんどが壊滅してしまう。 第2縦隊の兵士(そのほとんどが経験の浅いオーストリア兵)もまたこの戦闘に投入されて兵力が膨れ上がり、フランス軍に後退を強いた。 だが死に物狂いになったサンティレールの兵士たちは再度猛攻撃を仕掛け、銃剣突撃により、連合軍を丘から撃退した。 ロシア兵とフランス兵との軍旗争奪戦。 Viktor Mazurovsky画 北側ではヴァンダム師団がシュターレ・ヴィノフラディ(「古い葡萄園」)と呼ばれる地区で攻撃を行い、優れた小部隊戦術と痛烈な一斉射撃により、幾つかの連合軍大隊を撃破している。 クトゥーゾフは左翼軍司令のブクスホーデン元帥に主力部隊を中央部へ差し向けるよう要請したが、ブクスホーデンは事態の重要性を未だに理解できておらず拒絶してしまう。 戦いはフランス軍優勢に転じたが、まだ終わってはいなかった。 ナポレオンはベルナドット元帥の第1軍団にヴァンダム師団の左翼を支援するよう命じ、自らの本営をズラン高地からプラッツェン高地の聖アントニウス礼拝堂へ進めた。 危機的状況を受け、ロシア皇帝はロシア近衛軍の投入を決意した。 ロシア皇帝の弟であるが近衛騎兵を率いてヴァンダム師団に反撃を行い、この戦いにおいて唯一フランス軍旗(第4戦列歩兵連隊所属大隊の軍旗)を奪い取った。 ナポレオンは自軍の苦戦を見て親衛重騎兵隊に前進を命じた。 フランス軍親衛重騎兵隊がロシア軍近衛騎兵隊に突進したが、両軍とも多数の騎兵を送り込んだため決着はつかなかった。 ロシア軍が数的には優勢だったが、程なく ()師団(第1軍団所属)が参戦したため流れが変わった。 ドルーエ師団が側面に展開して騎兵隊を退避させた。 近衛隊のがロシア軍騎兵やに多数の損害を与えた。 ナポレオンは止めを刺すべく近衛擲弾兵と兵を投入する。 再起したフランス騎兵から400mに渡る追撃を受けてロシア近衛兵は撃破され、多数の戦死者を出した。 犠牲者には重傷を負ったクトゥーゾフと戦死した彼の娘婿のティーゼンハウゼン伯爵 ()も含まれる。 終局 [ ] 午後2時までに連合軍は致命的に分断された。 ナポレオンは両翼いずれをも選択できた。 敵軍右翼は既に掃討されたか後退中であったため、ナポレオンは左翼攻撃を決めた。 戦場の北側でも激戦が繰り広げられていた。 ようやく配置位置に到着したリヒテンシュタイン公の重騎兵隊が軽騎兵師団に攻撃を始めた。 戦闘は当初フランス軍優勢であったが、ロシア兵の数が非常に多いと分かり、 ()師団の援護下に後退している。 カファレリ師団がロシア軍の攻撃を食い止めたため、ミュラ元帥は2個胸甲騎兵師団(師団長は ()と ())を投入させ、ロシア騎兵の撃退に成功した。 混戦が激しくそして長く続いたが、最終的にフランス軍が打ち勝った。 ランヌ元帥の第5軍団がバグラチオンの部隊に対して攻撃をし、熾烈な戦いの末にこの熟練したロシア軍司令官を戦場から後退させた。 ランヌは追撃を求めたが、この地区の戦闘指揮を担当するミュラは反対した。 ナポレオンの焦点は未だ両軍の間で戦闘が続いている戦場南端のソコルニッツ村とテルニッツ村へと移された。 サンティレール師団と第3軍団の一部による二方向からの効果的な攻撃によってソコルニッツ村の連合軍は蹴散らされ、この方面の連合軍二個縦隊の司令官 ()中将とランジュロン中将に早急な撤退を決意させた。 この時、泥酔していた連合軍左翼司令官 ()元帥もまた逃げ出した。 キンマイヤーとオライリー軽騎兵部隊が殿(しんがり)を務め、襲いかかる6個フランス騎兵連隊の内5個までを撃退する奮戦をした後に撤退した。 パニックが連合軍全体に広がり、持ち場を離れて潰走し始めた。 有名かつ凄惨なエピソードはこの敗走に際して起こった。 フランス軍に敗れウィーン方向へと逃れようとしたロシア兵が凍結したザッチャン池を渡っていた。 フランス砲兵が彼らを砲撃すると氷が割れ、ロシア兵たちと大砲数十門が冷たい池に落ちた。 犠牲者数は資料によって異なり、少ないもので100人程度 であり、多いものでは1万人以上 になっている。 『大陸軍戦闘詳報』はこの事件で2万人が溺死したと誇張して報告しており 、ロシア皇帝はこの破滅的な大敗の言い訳としてこの見積もりを黙認した。 溺れたロシア兵の多くが、勝者となったフランス兵によって救助されている。 暫く後に公になった現地の地方判事の記録によると、この大惨事に関するナポレオンの記録は全くの創作ということになる。 会戦の数日後、皇帝の命令により池の水が排水させられたが、池の底からは僅か2から3体の死体と150頭の馬の死体が発見されただけだった。 連合軍の死傷者は15,000人に上った。 フランス軍の死傷者は8,233人である。 加えて、連合軍は大砲180門 と軍旗50本 を失っている。 この大勝利の報は前日まで財政破綻の危機に動揺していたパリに大きな歓喜と昂奮状態をもたらした。 ナポレオンは皇后ジョゼフィーヌに対し「私は二人の皇帝に率いられたオーストリア=ロシア軍を叩きのめした。 私は少しばかり疲れた…あなたを抱きしめたい」と書き送っている。 一方、皇帝アレクサンドル1世は「我々は巨人の前の赤子だった」と嘆いている。 戦後 [ ] 会戦後のナポレオンとフランツ1世との会見。 画 12月4日、オーストリア皇帝フランツ1世はナポレオンと会見して和平を求めた。 この22日後にが締結され、オーストリアは戦争から脱落した。 オーストリアは(1797年)と(1801年)での領土のフランスへの割譲を再確認して5000万フランもの賠償金を課せられ 、加えてナポレオンの同盟国であったバイエルン、そしてに領土の割譲を強いられ、またナポレオンの衛星国であるへ、、を譲渡せねばならなかった。 これらの条項は過酷ではあったが、オーストリアにとって破滅的なものではなかったのも確かである。 ロシア軍は祖国への撤退を許され、フランス軍は南ドイツに駐屯した。 翌1806年1月にイギリス首相ウィリアム・ピットが急死し、第三次対仏大同盟は瓦解した。 アウステルリッツの勝利によって、フランスと中欧との緩衝地帯としてのが成立する。 1806年、フランツ2世は退位を表明し、の称号のみを留めた。 これらの成果は、ヨーロッパ大陸に恒久的な平和をもたらしはしなかった。 は中欧へのフランスの影響力伸長を警戒し、翌1806年にを引き起こすことになる。 報償 [ ] 会戦後、ナポレオンは兵士たちを讃える演説を行った。 兵士たちよ、私は諸君に満足している。 諸君は、アウステルリッツの戦いにおいて、私が諸君の勇敢にかけた期待を裏切らなかった。 諸君は諸君の軍旗を不滅の栄光によって飾った。 ロシア皇帝とオーストリア皇帝の指揮する10万の軍は、4時間足らずして、分断され四散させられた。 諸君の砲火を免れた者も湖に溺れて死んだ。 ロシアの近衛隊の40本の軍旗、120門の大砲、20人の将軍、3万以上の捕虜が、永久に栄光に輝くこの日の戦果である。 諸君にはもはや恐れるべき敵はいない。 兵士たちよ、我々の祖国の幸福と繁栄のために必要なことがなされたときには、私は諸君をフランスへ帰すであろう。 国民は諸君の帰還を喜ぶであろう。 そして諸君は、「アウステルリッツの戦いに加わっていた」と言いさえすれば、こういう答えを受けるであろう。 「ああ、この人は勇士だ! ナポレオンは上級将校に200万フラン、兵士には各々200フランを下賜し、戦死した兵士の未亡人たちには多額の年金が与えられた。 孤児となった子供たちはナポレオンが養子とし、洗礼名または家名に「ナポレオン」を称することを許した。 一方で、彼はこの様な大勝利の後では通例である司令官たちの叙爵を行っていない。 ナポレオンはアウステルリッツはあくまでも彼個人の勝利であり、他人を昇進させるべきものではないと考えていたためであろう。 評価 [ ] モニュメント [ ] 市内のに立つコラム(立柱)はアウステルリッツの戦いで鹵獲した大砲を鋳潰して製作された。 このコラムはナポレオンの没落後のフランスの国内情勢の変遷により論争の対象になり、頂上のナポレオン立像を取り除かれたり、の際には倒されたこともあった。 コラムはパリ・コミューン崩壊後に再建され、現在の姿で残っている。 また、アウステルリッツの戦勝を記念して1806年にの建設が決められた (完成は1836年)。 パリにはこの会戦に由来する( Gare d'Austerlitz)がある。 古戦場であるチェコのには平和記念碑や戦跡碑がある。 会戦200周年となる2005年には同市で記念式典が開かれたが、フランス国内でナポレオンの歴史的評価を巡るが引き起こされ、大統領や首相は出席せず、国防大臣のみが出席した。 この町では毎年アウステルリッツの戦いを再現するイベントが催されている。 のには「」( )と呼ばれる記念碑がある。 これはオランダに駐屯していた将軍が1804年に築かせたもので、の際に目にしたをモチーフにしている。 元々はアウステルリッツの戦いとは関係のない建築物だったが、1806年にとなったナポレオンの弟が兄の戦勝を記念して命名したものである。 ルイ・ボナパルトは更にユトレヒト近郊の町を ()と命名している。 『戦争と平和』初版本表紙 アウステルリッツの戦いはの小説『』のストーリーの重要なイベントとなっている。 この会戦はフランス人の粗雑な論理や傲慢さに対してロシア人の価値観や超俗的な伝統そして素朴さを称揚する役割を果たすエピソードとなっている。 会戦が始まろうとしていたとき、主要登場人物であるアンドレイ公は「来たる日が、彼にとってのトゥーロンまたはアルコラ(ナポレオンの初期の戦勝)になるのだろうか 」と思いを巡らせている。 アンドレイ公は栄光を望み、「私は先頭に立って進み、私の前に来るもの全てを一掃してやる」と決意した。 だが、戦闘後に彼は敵の捕虜になり、彼にとっての英雄であるナポレオンと出会う。 そして、それ以前の心酔は打ち砕かれ、彼はもうナポレオンについて考えなくなる。 「つまらない虚栄心や勝利への喜びを称えた英雄の姿は、彼が見た高く、高潔で、寛大な空に比べて、ひどくちっぽけなものに見えた。 」 トルストイはアウステルリッツの戦いをロシア人の最初の試練として描いている。 兵士たちが栄光や報酬のために戦うという過ちを犯したためこの戦いに敗れた。 トルストイはのの際により崇高な価値が生み出されたとしている。 歴史的解釈 [ ] ナポレオンは連合軍撃滅に関して、その望みを完全に達成したわけはなかったが 、歴史家や信奉者たちは当初の作戦により、十分な勝利を得たと考えてきた。 このため、アウステルリッツの戦いはやといったその他の戦術的大勝利としばしば比肩される。 幾人かの歴史家たちは、アウステルリッツの戦いで大勝しすぎたため、ナポレオンは現実感覚を失ってしまい、この戦い以降、フランス外交は「ナポレオンの私有物」と化したと指摘している。 においてこの戦いは偉大な勝利と認識されており、第一帝政に対する憧憬が高まった19世紀にこの戦いは敬慕され、同時代の詩人は「深い思索の中で…アウステルリッツへ向けた大砲の轟音が鳴り響く」と描写している。 しかしながら、2005年の会戦200周年に際しては大統領または首相が記念式典に出席すべきか否かを巡って論争が起こっている。 一方、フランス海外県の住民の一部はナポレオンは植民地での虐殺に関与したと見なしており、アウステルリッツの戦いは祝われるべきではないと主張し「ナポレオンを公的に祝賀する」式典に反対した。 脚注 [ ] [] 注釈 [ ]• 65,000人、67,000人、73,000人または75,000などの人数があるが、文学ではこれらとも異なる人数も現れる。 この様な食い違いが生じる理由はダヴー元帥の第3軍団7,000人が開戦時には戦場に到着していなかったためである。 この部隊の兵数を含めるか否かは解釈による。 この項目では開戦時に戦場に布陣した67,000に加えている。 David G. Chandler, The Campaigns of Napoleon. 416 では第3軍団を除外して67,000人としている。 73,000、84,000または85,000などの人数があり、文学では更に異なる人数もある。 73,000人 - Andrew Uffindell, Great Generals of the Napoleonic Wars. 85,400人 - David G. Chandler, The Campaigns of Napoleon. 417 In Napoleon and Austerlitz 1997 でScott Bowdenは連合軍総兵力の通説は85,000人だが、これは部隊編制からの理論上の人数であり、実際に戦場にいた人数ではないと指摘している。 130. および大橋 1983 ,p. 197. 連合軍の死傷者数は資料によって異なり、,p. 139. では27,000人になっている。 206. および,p. 197. 捕虜の人数は資料によって異動があり、,p. 130. では30,000人になっている。 イギリスはバルト海経由で木材、タール、麻といった生活必需品を輸入しており、ロシアによるバルト海支配は好ましいものではなかった。 加えてイギリスはロシアの進出を阻止すべくを支援していた。 一方、フランスによるドイツ諸邦再編はロシアとの協議なく行われており、ナポレオンによる併合は両国関係を険悪化させた。 328. これは誇大報告で、実際には捕虜は25,000人程度とみられている。 オーストリア軍は橋を爆破しようとしていたが、ランヌ元帥とミュラ元帥の機転により、無傷でフランス軍に奪取された。 206. 師団将軍が負傷療養中のため指揮を代行。 この手紙の中のナポレオンの言及により、有名な「三帝会戦」の名称が生まれた。 しかしながら、実際にはオーストリア皇帝フランツ1世は戦場にはいなかった。 , p. 432—433. 出典 [ ]• 『名画で読み解く ロマノフ家12の物語』、2014年、128頁。 130. 432. 206. コトバンク. 2018年2月18日閲覧。 , p. 432—433. 130. 304. 320. 331. ,p172. 323. 332. 333. ,pp. 548-549• 549. , p. , p. , p. 155• ,pp. 173-174. ,pp. 175-176. , p. 108. ,pp. 117-122. 181. , p. 407. ;,p. 124. 154-160. 125. 194. ,pp. 124-125. , p. 409. 191. , p. 342• 410. 195. 411. ,pp. 9-10. 137. , p. 412—413. 416. ,pp. 200-201. 392. 109• , p. 413. , p. 412. ,pp. 193-194. ,pp. 107-108. 108. , p. 48—49. 108. 202-203. , p. , p. 425. 108. , p. 49—50. 136. 137. , p. 139. 196• 108. , p. ,pp. 207-208. 日本大百科全書(小学館). 2011年10月22日閲覧。 [ ]• 日本大百科全書(小学館). 2011年10月22日閲覧。 [ ]• , p. 439. 2011年10月22日閲覧。 Czech Tourismーチェコ共和国オフィシャル観光案内. 2010年12月23日時点の [ ]よりアーカイブ。 2011年10月22日閲覧。 2011年10月26日時点の [ ]よりアーカイブ。 2011年10月21日閲覧。 317. 340. , p. 350• , Accessed 20 March 2006• Barnes, Gregory Fremont 2010. 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