光太郎の有名な書にも『正直親切』とあるが、有難いことこの上ない。
実家の造り酒屋は、今にも智恵子が飛び出してきそうな雰囲気です。
「いやなんです あなたのいつてしまうのがー 花より先に実のなるような 種子より先に芽の出るような 夏から春のすぐ来るような そんな理屈の合わない不自然を どうかしないでゐてください (中略) いやなんです あなたのいつてしまうのがー おまけにお嫁にゆくなんて よその男のこころのままになるなんて」 光太郎のアトリエに通うにようになった智恵子は光太郎から絵を学び、徐々にふたりの距離は近づいていった。
『智恵子抄』、著:高村光太郎 新潮社の本は久しぶりですね。
」 (高村光太郎、「智恵子抄」より「報告」新潮社) 今の東京の描写かと思いました。
智恵子はすでに元素にかへつた。
その後、白玉書房から昭和22年に二つの詩が加えられ出版されたが、又元の形のまま龍星閣が真紅の装丁で世に出した。
彼は週に1度は彼女の元を訪ね、その療養生活は8ヶ月におよびました。
智恵子は遠くを見ながら言ふ。 レモン哀歌など7つの詩が楽曲化。 坂を登るとここが見晴らし、 展望二十里南にひらけて 左が北上山系、 右が奥羽国境山脈、 まん中の平野を北上川が縦に流れて、 あの霞んでいる突き当りの辺が 金華山(きんかざん)沖ということでせう。
7人は智恵子に化粧する。 詩碑や2人が歩いた小道、展望台などが整備されています。
運命は生きた智恵子を都会に殺し、 都会の子であるわたくしをここに置く。
裁判 [ ] 光太郎の没後の1965年、龍星閣の代表がこの詩集を編集著作したと主張したことを受け、その翌年、光太郎の相続人が出版社とその代表を相手取り、編集著作権は詩人の側にあるものとして、に提訴した。
画商山崎:• よって無事に智恵子との結婚が許されてアトリエでふたりは棲み始めた。
監督:• あなたは不思議な 仙丹 ( せんたん )を魂の壺にくゆらせて、 ああ、何といふ幽妙な愛の海ぞこに人を誘ふことか、 ふたり一緒に歩いた十年の季節の展望は、 ただあなたの中に女人の無限を見せるばかり。 加賀貞子:• 桜若葉の間に在るのは、 切つても切れない むかしなじみのきれいな空だ。
智恵子はマニキュアに使うハサミで、さまざまな絵を切り抜いていきます。
あの畑が三畝(うね)、 今はキャベツの全盛です。
しかし、やっと心の決心はついても結婚は自分だけの問題ではないため、両親にどのように話してよいものかと考えると、親元から独立することもできない気弱な性格の光太郎の気持ちはもやもやするばかりで、次の行動に出ることができなかった。
「ほんとの空」は、2人が手を取りあって登った鞍石山(智恵子の杜公園)から見ることができます。 声の出演• 安川:• 未遂に終わったものの症状は進行し、1938年10月5日、智恵子は7年にわたる闘病の末、肺結核のため52歳で旅立つ。 ああ、あなたがそんなにおびえるのは 今のあれを見たのですね。
13彼女にとっては、阿多多羅山(現在の安達太良山)のある空こそが、本当の空だったのです。
1956年、智恵子と同じく肺結核でこの世を去る。
それでいて30歳を目前としながらも、まだ両親に甘える反面、忠告には後ろ向きな態度をとってしまう自分を悲しげにも思うこともしばしばであった。
ふみ子:• つつましくて満ちてゐて 星宿のやうに森厳で 山脈のやうに波うつて いつでもうすいミストがかかり、 その造型の 瑪瑙 ( めのう )質に 奥の知れないつやがあつた。
高村智恵子: 脚注 [ ]• あはれな一個の生命を正視する時、 世界はただこれを遠巻にする。
そこで人生のターニングポイントを迎えます。 1914年に、2人は結婚。
本により、詩の順序等が違う? 現在、複数社から出ている書籍には、 当初光太郎が木っ端として省いた作品や、龍星閣から「智恵子抄その後」として出された中の作品もまとめて一冊にしたものがある。
その後、智恵子に異変が起こる。
偉大なる彫刻家の光雲を父にもつコンプレックスと周囲から向けられる期待の目は光太郎にとって重いもので、職人として、また芸術家として宿命的な悲運を痛感するものであった。
智恵子は富士山麓の秋の七草の花束を ヴエズヴイオの噴火口にふかく投げた。
智恵子とは光太郎の妻、高村智恵子のことで、彼女と結婚する以前からその死後に至るまで書き続けられた彼女への想いが編集されている。 福島テレビ新番組紹介広告から• だが、二人の生活は金銭的に苦しい日々が続き、その中での制作活動となった。
あどけない話ではありますが、2人のすれ違いが描かれている詩でもあるのです。
結婚後、二人はアトリエで愛を育んでいきます。
思想・哲学・宗教 神話もここです。
解説3:千鳥と遊ぶ智恵子 人つ子ひとり居ない九十九里の砂浜の 砂にすわつて智恵子は遊ぶ。 最後に「報告」を。
18岩手の山は荒々しく美しくまじりけなく、 わたくしを囲んで仮借しない。 光太郎は精神を病んだ智恵子を、千葉県の九十九里浜に療養のためにつれてきます。
太平洋戦争開戦の年に刊行された。
それを見た光太郎が立ち尽くしているところに、彼の感情が込められています。
犬吠の太郎:• 個人的な感情が、深淵さ、純度、崇高さ、詩の完成度…等により、 普遍の文化となった「智恵子抄」。