さらにイタリアやフランスやロシア等の風景にはそれぞれの国の民謡を奏する慣習が存在していた。 しかしながら、一般には、原始的なものであり現代人の鑑賞に堪える代物ではないとの誤解が広く存在する。
『キネマ旬報』(1929年、5月21日号)、40頁を参照。
カーネギー・ホールの音楽指揮者として二シーズンを過ごしたが、映画界に進路を見出して辞す。
現代美術のようなユニークな外観の建物の中に、独特な雰囲気のロビーと大変見やすく居心地の良い劇場空間が用意されています。
「無音の海」を感じとることができればラッキー。
(1883-1930)• 「外国映画に関しては、最低限、ピアノ、ヴァイオリン、セロのトリオで間に合うが、日本映画、とりわけ時代劇には、そこに、是非、三弦、フリュートを付け加えるべきである」。 「これにて一巻の終わり」などがそうである。
17その気運を今度の新作映画『カツベン!』がさらに高める結果となり、無声映画の数々の更なる発掘や再発見、ソフト化などが促進される未来が訪れるよう、いち映画ファンとしては祈らずにはいられません。 雷に7度撃たれたという老人の無声映画のような回想フィルムに今が現実世界かどうか不安に思う。
出典| 株式会社平凡社 世界大百科事典 第2版について. 無声映画ともいう。
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無声映画 むせいえいが 【写真を見る】フランスの紳士は城田優、セクシーな女性は草刈民代!『カツベン!』は劇中映画も超豪華<写真12点> [c]2019「カツベン!」製作委員会 劇中に出てくる無声映画の1つ。
(1904-1977)• 金指、10頁。
正しくはこちらを。
凄いなあと思う。
(1893-1964)• ピアニスト自身のオリジナルな作曲や編曲による部分もあるのでしょうか。
それ故、映画の場面や気分にしっくり合ふ音楽を選定する為に映画を試写してみなければならぬ。 それにしても100本の上映には5年以上かかるらしく、随分気の長い企画。
(1906-1985)• とはいえ映画学者リック・アルトマンが述べるように、ラペーの『映画伴奏事典』と、ベイノンの『映画音楽のプレゼンテーション』、そしてラングとウエストが執筆した『映画の音楽伴奏』(1920)の三冊のみを引用するだけで、単一的なサイレント映画期の伴奏音楽史を書き上げてしまうことは慎まねばならないだろう。
(所属)• (1885-1965)• 高良健吾がスター気取りの活動弁士を演じる [c]2019「カツベン!」製作委員会 無声映画に合わせて登場人物に声を当てたり、場面の説明を行うしゃべりのプロ。
(1902-1981)• 元NFTVA(現BFI国立アーカイブ)のデイヴィッド・ピアスによる米国の無声映画(ただし〈劇映画〉に限る)の残存に関する最新の報告書。
3本ともピアノの生伴奏と、本物の活弁士(活動写真弁士)による語りつきでの上映。
調べるとやはり彼は無声映画の大ファンで、シリーズ第2作『ぼくのおじさん』(58)でアカデミー賞外国語映画賞を受賞して来米した際も、マック・セネットやバスター・キートン、ハロルド・ロイド、スタン・ローレルといった無声映画時代からのスターとの歓談を望み、それを楽しく実現させたとのこと。
2村尾薫「常設館音楽部の改善」『国際映画新聞』 1928年10月号 、23-25頁。 また最近チャップリン映画のメイキング風景を収めたフィルムが発見され、それらを見ますとスマートでコミカルかつリズミカルな映像の動きの数々が、実は幾度もNGテイクを繰り返しながらタイミングを合わせて成し得ていたという事実に衝撃を受けます。
上映に際してはやによる伴奏が付くことが多かった。
大正時代の映画館を含む活気ある町並みを再現した豪華セットやオールスター・キャスト、周防監督ならではのユーモアとヒューマニズムあふれる語り口、当時の無声(サイレント)映画の数々も流用ではなく、ほとんど新たに35ミリ・フィルムで撮影して披露するなどの試みもなされており、総じてノスタルジックで楽しい雰囲気は正月映画にふさわしいものともいえるでしょう。
本書が出版される前年にラペーは『ピアニストとオルガン奏者のための映画のムード』を出版した。
主題歌を採用することによってキュー・シートの編集が容易になったために、選択する曲目が減り、オーケストラとオルガン奏者の負担が軽くなったが、「単調さ」や「繰り返し」が生じるというリスクを伴っていた。 だからこそパラマウント直営の映画館においては、映画の説明者 理解者 たる松井翠聲自身が楽長の役割を兼務し、それまで存在した多様な音響実践を平準化するような、アメリカの制度化された音響実践を推奨してゆくのである。
8London: British Film Institute, 1999 , pp. Erno Rapee, Motion Picture Moods for Pianists and Organists: A Rapid-Reference Collection of Selected Pieces, New York : G. (1902-1987)• ただ、特に日本映画の場合は活動写真が消耗品のように扱われたり、資源不足のあおりをくってフィルムが再利用されたこと、加えて戦火で焼失したものも少なくないことから、残存している作品が大変少なくて、本当に残念です。 私は外人の役ですが、試写でご覧になった方で、何人か全く私に気づかなかった方がいらして、すごく嬉しかったです!」(草刈)、「今回の役は、いかに見本になった無声映画に近づけられるかがポイントでした。
活動写真を賑やかなエンターテイメントに仕立てます。
とりわけユダヤ系移民の映画興行者が、アメリカ映画の上映の幕間に、イディッシュ語のヴォードヴィル劇を上演することで、自らの文化的アイデンティティを保持した点は示唆に富むだろう。
映画産業のトーキー化という技術的な変化が、無声映画期の音響実践にとってかわり、それらを完全に破壊したという単純な進歩史観はつつしまねばならいものの(当然、ラジオやレコード産業等の他のミディアムとの関係も考察しなければならないだろう)、この時点で、楽士の存在は早くも不要なものとなりつつあったのである。
そうした状況の中、早くも翌年には日本の常設館における伴奏音楽の改善を促す声が上がり始めるのである。 [登川直樹] 出典 小学館 日本大百科全書 ニッポニカ 日本大百科全書 ニッポニカ について 「サイレント映画」の解説 … 映画のトーキー化は,根本的な技術革新であったから,発声技術のパテント使用料,機械設備など莫大な投資が必要であり,そのため金融資本との結びつきによる映画資本の高度化を急激に促進し,映画の産業的構造を一変して,ウォール街が直接ハリウッドを支配することになった なお,ドイツでも,映画に着目したルール地方の重工業資本がフーゲンベルク財団を通じてウーファ社を支配するという現象が起こっている。
2こちらも『雨に唄えば』同様、サイレントからトーキーへ移行する1927年のハリウッドを舞台に、時代に取り残されていくスター男優と、時代の波に乗っていく新進女優の恋と確執が、台詞を排したモノクロ映画としてロマンティックに綴られていきます。
後者がやや単一的な音響実践であったのとは対照的に、ブレイユのライトモチーフは、映画の状況に応じて流動的に修正する可変的な演奏であった。
少しだけ登場する古色蒼然とした8ミリ映像は、監督自身の若き日への賛歌か戦前の無声映画・活動写真への憧れか。
しかしこれが彼らの現実なんです。
以下の伊沢の音楽政策は、のちの映画音楽の方向性の指針としても読めるだろう。
(1924年、アメリカ、監督・主演)• さらに経済的見地からいち早くトーキーのシステムを導入した邦楽座、電気館、芝園館等のトーキー上映館ではレコード伴奏が行なわれていた一方で、レヴューを提供していた松竹座では(松竹座の幹部には、一流館としてレコード伴奏は貧弱だという自負心もあった)、従来どおり生の楽器伴奏を提供するなど、『映画伴奏事典』や『映画伴奏音楽』などの参考書によって音楽のレパートリーが均質化してゆく一方で、この時期のトーキー映画の常設館の興行方法は混沌とした多様性を保持していた。 『戦艦ポチョムキン』で有名なエイゼンシュタイン監督の無声映画を思わせる残酷な緊迫感にまず驚かされる。
登場人物のせりふはを挿入することで表現したが、の演技は大袈裟なものにならざるを得なかった。
村尾は、改善策の一つとして、たとえ時間のない封切館であっても、セカンドランをやっているうちに、伴奏曲目をじっくり検討してキュー・シートを作り、セカンドラン以下の地方館へ、フィルム、説明台本とともに送付することを提案している。
この映画は時代の流れをポジティブに受入れ、笑い飛ばしながら前進する。