曽良随行日記の記述では、この句が詠まれたのは、元禄2年 1689年 5月29日 新暦7月15日 、大石田での止宿先の船問屋を営む高野一栄宅においてですが、そのときには「五月雨をあつめてすずし最上川」でした。 一般に知られている句は、「涼し」が「早し」になっています。 ゆったりとした舟くだりを楽しめる川です。
10大島稲荷神社の句碑 ミニ奥の細道の句碑 に戻る. このたびの風流、 爰に至れり。
初案は「集めて涼し」で、涼しい風を運んでくる最上川の豊かさやさしさを表現しました。
最上川は、みちのくから流れでて、山形を上流とする川である。
その理由は簡単です。
梅雨の豪雨で増水した川なんて、近寄ってはイケナイと、小学生でもわかるもの。 体言止めを使用することで、 句にリズムが生まれ、俳句がより印象的なものになります。
19北上川との合流点北側の衣川柵旧跡で、前九年の役(1051年)に、追撃する源義家と敗走する安倍貞任とが「衣のたてはほころびにけり」「年をへし糸の乱れの苦しさに」と連歌を詠みかわした逸話がある。 初案は「あつめて涼し」。
でもこれは松尾芭蕉が漢字に弱かったとかではなくて、 実は「早い」もスピードをあらわすときに使えるのです。
かなり体力を要する旅を終えたことや、出身が伊賀で幼少期が謎に包まれていたことなどから、実は忍者だったのではないかという説もあるそうです。
1 向長崎の金比羅樽流し(山形県東村山郡中山町) 祭りは、渡し場があった集落で水難事故を逃れるために、船の航海安全を司る神である金比羅権現を祭るようになってから始まったものである。
後人の手もしばしば入ります。 擬人法が使われている この句は、 「最上川」に擬人法を使ったものだと言われています。 旅先にて 50歳で亡くなると、松尾芭蕉の葬儀には 300人もの弟子が参列したそうです。
12あれだって清水でなくとも祇園でなくともいいはず。 季節はいつ? ここまで読んだ方にはもう分かると思いますが。
いちど詠んだ句を変えるって、そんなのアリ? と思われるかもしれませんが、 こういうのはよくあることなんですね。
なお、古代では最上川が詠まれたのは、この「稲舟」と「否」を掛詞として用いたものが多い。
河川整備を行うにあたっては、斎藤茂吉の歌にみられる船着場の復元を平成12年に行い、舟運の復活を通じた地域の活性化に寄与している。
これによれば、川を上り下る稲舟のイメージが一番印象的だったことがわかります(稲舟はこれが初出)。
こんにちは。
このたびの風流爰に至れり。
この句の季語は 「五月雨」です。
2 黒川能(水焔の能)(赤川:山形県櫛引町) 戦前戦後の赤川方水路の開削まで最上川の支流だった赤川には、流域の代表的な伝統芸能である黒川能がある。
三重県の伊賀という地域に生まれ、武士の一族の出身だったとも農民の生まれだとも言われていますが、幼年期のことはよくわかっていません。
片田舎の素朴な風流とはいえ、それなりに風雅の趣を解し、手探りでやってきております。
この能は世阿弥が大成した後の猿楽能の流れを汲みながら現在上演されているどの流れにも属していない独特の形を持っているといわれており、櫛引町を南北に流れている赤川を境として上座と下座に分かれて、互いに競い合う形で演じられるものである。
それだけではありません。
解釈について 五月雨(さみだれ)は、梅雨時の降り続ける雨、 最上川は、山形県にある川、急流として知られています。
さらに、瀬戸内海では、この樽を引き上げ、香川県の琴平町の金刀比羅宮に奉納すると大漁を得るという信仰があると信じ、いつの日かはこの樽が拾われ、金比羅様の神前に自分が捧げた神酒が届くと考えていた。 この最上川は、古代(平安前期)には既に舟運の盛んな河川として知られており、盛んな舟運は、流域内の米や紅花といった物産品や金山杉といった木材を下流の都市や都に運ぶとともに、都の文化や風土を奥州の地に運び、東北の文化を育む一つの要因となったものと考えられる。
蕪村は芭蕉の句をハッキリと意識して、この句を詠んでいるようです。
最上川…… この歌枕の本歌は、上記の「最上川上れば下る稲舟………」であり、多くの歌に「稲舟」と呼ばれる川舟が行き交っていた様子が詠まれている。
この二つの句には、 芭蕉と蕪村の資質の違いがとっても出ています。