多数の歌集のほか、万葉集、古今集、新古今集の評訳、源氏物語の現代語訳などを著した。 『濁れる川』国民文学社・抒情詩社、1915年6月。 『古典文学論 1』角川書店〈窪田空穂全集 第9巻〉、1965年12月。
13として働いていたときにの影響で作歌を始める。
今年は空穂生誕140年・没後50年です。
しかし、それ以上に大切なのは、初句の「鉦慣らし」だろう。
歌集『さざれ水』『郷愁』などがある。
「春」「春から夏」「夏」「秋」「秋から冬」と季節ごとに章立てて紹介され、植物観察に役立つ解説も付されています。 窪田空穂 くぼた・うつぼ(1877—1967) 本名=窪田通治(くぼた・つうじ) 明治10年6月8日—昭和42年4月12日 没年89歳 東京都豊島区南池袋4丁目25—1 雑司ヶ谷霊園1種9号八側20番 歌人。
土地を離れたのは、旅として東京見物の一度きりであり、「死んでも信濃を離れない人」と作者は考えていた。
『万葉集選』日月社〈詩歌叢書〉、1915年2月。
死に直面しながら苦悩する島の周囲には、空穂のほかにも、善意と人間愛に満ちた人々がいた。
巡礼の定義は、「巡礼というのは、我々の居住地、つまり日常空間あるいは俗空間から離脱して、非日常空間あるいは聖空間に入り、そこで聖なるものに接近・接触すること」(wikipedia」であるが、ここでは、母のいる世界に近づくために、日常的な空間を離れることとなるだろう。 『わが文学体験』岩波書店〈岩波文庫〉、1999年3月。
『近代名歌の鑑賞』修学書房、1949年12月。
『郷愁』書物展望社、1937年5月。
長らく所在不明になっていて平成16年秋に発見されたのが、追悼帳『亡妻の記』です。
巣立ちをした雛たちが、秋になって暖かい土地に旅立つために練習をしているようでした。 本学の多くの学生に、窪田空穂記念館を訪れてほしいと願います。 『歌集 茜雲』西郊書房、1946年8月。
番組では、短歌に救いを見出した死刑囚と歌壇の重鎮との間に交わされた往復書簡や二人を知る人たちの証言などをもとに、刑務所の高い塀を越えて、どのような心の通い合いがあったのか、人生のどん底にまで落ちたひとりの人間を変貌させたものは何だったのかを探る。
『短歌作法 上』PL出版社〈窪田空穂著作集 第1巻〉、1951年12月。
その中から、柴野の教え子でもある共編の小松源一郎 松本市窪田空穂記念館前館長 が130枚を選び抜き、同じく厳選した130首と結び付けて本書をプロデュース。
『歌論歌話 下』PL出版社〈窪田空穂著作集 第8巻〉、1954年12月。
その文筆活動は、短歌、小説、随筆、評訳と多彩であった。 晩年には『木草 きぐさ と共に』という歌集も残しており、本書の表題の元ともなっています。
『窪田空穂百首』窪田章一郎編、短歌新聞社、1993年12月。
< 旧雑司ヶ谷町> (昭和41年までの町名) 延亨3年(1746)、町名がつけられた。
を目指すものの天候の悪化により断念。
『青朽葉』神谷書院〈国民文学叢書 第16編〉、1929年8月。 「シベリヤの涯(はて)なき曠野(こうや)イルクーツクチェレンホーボのバイカル湖越えたるあなた」と詠いだし「むごきかなあはれむごきかなかはゆき吾子」と締めくくった、史上最大の長歌でもある。
『伊勢物語評釈』東京堂出版、1955年9月。
《万葉集評釈》《評釈伊勢物語》《新古今和歌集評釈》など古典研究の業績も多い。
共編 [ ]• 『万葉秀歌』上、春秋社〈日本秀歌 1〉、1956年9月。
昭和34年、故郷・新潟で強盗殺人の罪を犯して極刑を言い渡され、昭和42年、33歳で刑を執行された。 願うべくもない90年にも及ばんとする現世の営みにも終わりが来た。
『万葉集の批評と鑑賞』、1948年5月。
しかし、鉄幹の志向との奔放な恋愛の歌ともに共鳴することができず、一年後に退会している。
帰路、の宿で偶然投宿していたら文人と遭遇し談笑していたところ、隣室に投宿していたに「話声を遠慮してくれ」と注意されるエピソードがあった。